主日の福音2001,4,8
受難の主日(Lk 23:1-49)
本当に、この人は正しい人だった
長い長い朗読でしたが、今日の福音の中で、イエス様の最後の言葉が私の心を打ちました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(v.46)。イエス様が御父に「霊」をお返しになったことは、大変意味深いと思います。
じつはこの「霊」は、イエス様の生涯の始まりから終わりまで、大切な場面に現れた「霊」で、今日のイエス様のひと言に、重みと深みを与えるものです。イエス様の誕生に際して、母となるために選ばれたマリア様は、この「霊」に包まれました。イエス様は洗礼をお受けになったとき、霊が鳩のようにくだりました。イエス様の宣教活動中、「霊に満たされて」おられたのです。そして今日、イエス様はそのすべての業を完成されたので、「霊」を御父にお返しになりました。
これは言い方を変えると、イエス様は、神の子として生きるわたしたちに、一つの道筋を示してくださっているのです。「わたしたちは、霊に包まれて生き、霊に導かれて生涯を全うし、最後には霊を与えてくださった父なる神に、返さなければいけないのだ」と。あの言葉は、キリスト信者の生き方について、イエス様が十字架の上から残された、最後の模範だったのです。
では、「霊煮に包まれて生き、霊を御父に返す生き方」とは、どういうことなのでしょう。それは、あなたが答えを出す一つひとつの問題に、「霊の導きを入れる」ということです。小さなことから、大きなことに至るまで、自分を過信して生きるのではなくて、一つひとつ、具体的に「霊の導き」を願う、そしてこの態度で、生涯をまっとうしようと心がけることです。
朝、起きたときに祈る人も多いことでしょう。「今日一日、あなたの導きに従って生きることができますように」。なあんだそれくらいと思うかもしれませんが、言うと言わないとでは、まったく違うのです。
自分の生涯設計について、進路選択について、言葉を選ばないといけない大切な場面で、子供に大切なことを伝えるとき、果ては、最後に何かを言い残すとき、「神よ、あなたの導きの中で、一つひとつの事を決めていくことができますように」と願う。これが、イエス様に倣って「霊に導かれて生きる」ということではないでしょうか。
イエス様はこの最後の場面で、「霊」を御父にお返しになりました。わたしたちも、人生を「霊の導き」にゆだねて生きたなら、人生の終わりのときに、導いてくださったその「霊」を、神様にお返しします。こうして、わたしたちは生涯を通して、さらに生涯の幕を閉じるときも、イエス様に倣って生きることができるのです。そのための模範を、イエス様はお与えになったのです。
百人隊長が、興味深いことを語りました。「本当に、この人は正しい人だった」(v.47)。霊に包まれ、霊に導かれて生涯を生き抜き、最後にその霊を「御父に返す」生き方は、まさしく「正しい生き方」なのです。わたしたちも、この生き方に招かれているのです。
誰も、自分の力で正しく生きることはできません。たとえ、わたしたちがイエス様のように十字架にはりつけになったとしても、自分で正しい人にはなれないのです。正しく生きるとすれば、イエス様の生き方に自分を合わせる。唯一それが、わたしたちが確かに正しいと言える生き方なのです。
わたしたちも、最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言ってすべてをゆだねることができるように、これからの聖なる一週間の典礼に、できるだけ参加するようにいたしましょう。
唯一、正しく生きることを知っておられたイエス様の道行きに、わたしたちもお供しましょう。そして、わたしの人生を、父なる神に、「あなたは正しい人だった」と言ってもらえるものとすることができるように、今日のミサの中で祈ってまいりましょう。