主日の福音2001,4,1
四旬節第五主日(Jn 8:1-11)
イエスと、真ん中にいた女が残った

今日の福音は、姦通の現場で捕らえられた女性を前にして、律法学者たち・ファリサイ派の人々と、イエス様のとあいだで駆け引きが行われます。人々の憎しみの輪の中に投げ出され、恐れおののくこの「罪を犯した女性」の様子を、私たちは十分に想像できます。

この女性は、言い逃れのできない姿でイエス様のもとに連れて来られました。女性もそれは覚悟していたでしょう。当時の律法は、姦通の罪を犯した両当事者を石打ちにして、イスラエルの共同体から取り去るように命じていました(申命記2222)。もう彼女には生き延びる道はないとさえ思えたでしょう。たとえ人々が、掟を文字通りに実行しなかったとしても、すでに姦通の罪で訴えられたこの女性は、「死の淵」で怯えていたのです。

女性が崖っぷちまで追い詰められたその時、イエス様の心の思いが明らかにされました。イエス様はひとまず、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)と仰って、人々を立ち去らせました。胸に手を当てて正直に考えるなら、誰も、人を罪に定めることはできないのです。もし、それができるとすれば、ただひとり、「罪を犯したことのない」イエス様だけが、人を罪に定めることができるのです。

年長者から始まって、一人、また一人と去っていきますが。イエス様は最後まで残られました。姦通の罪を犯した女性にとって、最後までイエス様がお残りになったそのことだけで、ご自分が罪を犯したことのない方で、人を罪に定めることのできる唯一のお方であることを知らせるに十分でした。

罪を犯した女性は、はじめのうちイエス様に何かを期待していたでしょうか?私は、あまり大きな期待は持っていなかったと思います。それは、イエス様とこの女性だけが残されたときも、まだ同じ気持ちだったかもしれません。イエス様は何も言わないけれども、最後まで残られた。イエス様に、自分の犯した罪がどう裁かれるのだろうか、そんな思いで頭はいっぱいだったのではないでしょうか。

イエス様は、震えおののいている女性に、想像もつかなかった言葉をかけてくださいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。

これは、ただ罪をとがめなかったと言うだけでしょうか?そうではないと思います。彼女は罪の重さで、「死の淵」「崖っぷち」に立っていました。それはもう、いったん死を味わったと同じだったかもしれません。イエス様はそこから女性を助けあげて、「いのち」へと連れ戻してくださったのではないでしょうか。「あなたを罪に定める」と、もしもひとこと言えば、彼女はもう助からなかった、そんなぎりぎりのところから、イエス様は、神の深い許しを味わわせて、死からいのちへと移してくださったのです。

この世の中に、罪がなくなるわけではありません。洗礼を受けたキリスト信者が、罪を犯さないなどということでもありません。だから、一人ひとりは罪を憎んで人を憎まず、みながイエス様のおかげで死から命に連れ戻していただいたのだとわきまえて、助け合って生きていくべきなのです。

具体的な、姦通の罪を犯す人は、そういないかもしれません。ですが、私たちはみな、夫に対して、妻に対して、親に対して子に対して、つながっている教会に対して、最終的には神に対して、取り返しのつかないことをしてしまうことがあり得るのです。たまたま、人目に付かなかったかもしれません。たまたま、つじつまが合ってその場を逃れたかもしれません。そして、そのうちに、私たちは自分のしたことは忘れてしまい、他人の罪を見て裁いてしまうのです。

イエス様は、「死の淵に立たされた罪人」すら、いのちへと呼び戻してくださいました。それは、私たちにとるべき模範を教えてくださっているのです。人々が神の民に心惹かれるとすれば、イエス様の模範を一生懸命私たちが生活に当てはめようとするときではないでしょうか。罪人を罪に定める場所は、世の中にいくらでもあります。イエス様は、公の罪人を前にしてすら、「わたしもあなたを罪に定めない」と仰ったのです。

最後に、姦通の女性に向けた最後のことばを私たちも持ち帰ることにいたしましょう。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。許されて、いのちに連れ戻していただいたことを、わたしたちも携えて社会に出かけましょう。みなが罪を犯すのですから、人を罪に定めるという罪は、犯さないようにしましょう。この一週間、「わたしもあなたを罪に定めない」ようにして、イエス様を社会に証しすることにいたしましょう。