主日の福音2001,3,25
四旬節第四主日(Lk 15:1-3,11-32)
弟の回心、兄の回心
「かわいい子には旅をさせよ」とはよく言ったもので、私は先ほどまで中学生の子どもたちといっしょに三年生の卒業旅行に出かけておりました。場所は…、これ言ったら小学生がやきもち焼くよねぇ、スペースワールドです。
まずですね、もう行って帰ってきたので言いますが、中学生は素直です。「いやあ、教会学校にあんまり行ってないから」と、誰も言わないですもん。この大胆不敵さは、こういう企画でもないとわかりませんよね。
楽しむことだけはきっちり楽しませてもらいますというようなところは、中田神父はちょっと参りました。今度からは、心を入れ替えて教会学校にも精出してもらいたいものです。
さて、今日の福音は、福音書の中でもいちばん心を打たれるたとえ話「放蕩息子のたとえ」です。当時、生きているあいだに実際に遺産となる分をわけるということは、あまり聞かれなかったといわれているので、イエス様が父である神の姿を示すために、あえてこのようなたとえをお話になったのかもしれません。
弟は死にかけました。たとえ話の中では、飢え死にという形をとっていますが、霊的な死についても考えてよいでしょう。つまり、神に心を向けて生きる生き方から離れる、父親の豊かな愛と慈しみすら金に換えて、父の望む生き方から遠く離れて、父なる神に背を向けて生きることは、そのまま死を意味するということです。
ところが、世の中はよくしたもので、「旅」をさせたことでこの弟にも真実が見えるようになってきました。すべてを金に換えて、それで暮らすことができると思っていたのですが、金の切れ目は縁の切れ目、楽しく愉快に暮らす人たちも離れていきます。しまいには飢饉の中で、豚の食べるイナゴマメを求めました。
ユダヤ人にとって豚は汚れた動物です。イナゴマメは、私もイスラエルに行ったときにかじったことがあるので食べられないこともないですが、飢饉が襲ってきているとすれば、中の豆はもう取り出されたあとで、残ったさやを、豚と争って食べるという状況だったのかもしれません。これでは、人間らしさからはあまりにもかけ離れている。自分に腹が立ったかもしれません、惨めだと感じたかもしれません。たとえそうであっても、弟は立ち直り、父の家に帰ろうとするのです。
授業料は高かったかもしれません。がしかし、弟は今まで気付かなかった父のやさしさを知ったのです。父のもとで受けた愛情を、金に換えてみたけれどもそれは失ってしまった。父が絶えず注いでくれた愛を捨てて、初めて自分がどれだけ愛されて育ったかを知ったわけです。
弟のしたことは、人間のものさしで考えると、許されないのかもしれません。けれども、イエス様がここで仰ろうとしているのは、弟は遠回りをしたけれども、立ち返って父の愛を知った、私たちも、さまざま遠回りをする人もあるだろうけれども、そのたびを通して、最後には神の愛に自分を置いて生きることを選びなさい。死にかかってようやく気付いてもいいんだけれども、できれば、今何不自由なく暮らしている中で、神が私たちを愛し、許し続けていることを知りなさいということではないでしょうか。弟は波乱万丈の旅をしましたが、しっかり父の愛、神の愛に身を置かないと、生きていても死んでいるのと何ら変わらないということを知りました。
さて、兄のほうはどうでしょう。兄は、決められたことから外れることのない、忠実なタイプの息子だったに違いありません。それは、当時の社会を重ね合わせて考えれば、規則を忠実に守り、汚れとなるものには指一本触れない「いわゆる敬虔な人々」を指していたのだと思います。兄は弟の態度が許せませんし、自分と比較をしようとします。正しいとは、規則(父の言いつけ)に背かないことであって、規則から一歩も外れなければ、その人は正しく生きている。まさに自分は、正しく生きているのだと思ったのでしょう。
父は、兄にも一言いい含めました。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。言いつけに背かないからと言って、父が弟を許してあげることに賛成しないお前は、いったい何者だ?私は弟息子をあわれに思って家を飛び出し、首を抱き、接吻した。兄のお前も、許されないことだと断罪しないで、規則を一歩飛び出して弟を許してやるべきではないか。それが、父に倣うことではないのか・・・。
ここにも、イエス様が語る回心の姿を見ることができます。弟が父の心に立ち返ったことは、疑いもなく回心の出来事ですが、兄が、慈しみ深い父の姿に立ち返り、自分の正しさばかりを主張して他人にあわれみをかけないこれまでの生活を一新することも、ここでは回心のテーマとして取り扱われていると思います。
父なる神に立ち返るというのなら、神に背を向けた生活から立ち直ることも必要です。一方で、私は特別悪いことはしません。私は正しい人ですと思っている人も、父なる神の限りない慈しみ、許し、愛に、生きている限り見習っていくべきなのです。もう許せないと思うとき、またも神のあわれみに私も見習います、そうやって、より親しい神の子になるわけです。すべての人に、父なる神に立ち返るチャンスが与えられています。
このたとえ話の中で、父なる神の愛と慈しみに、結論を出していない人がひとりいます。父親はその一途な姿で神の愛を体現しました。弟は、神の愛に立ち返りました。しもべたちは、弟さんの立ち返りを喜びました。兄はどうでしょうか?兄は答えを出していないのです。父の思いを聞いても、うんともすんとも言っていないのです。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。私はちゃんと答えを出しているでしょうか。兄のように黙って、父親と弟の様子を冷ややかに見つめていないでしょうか。
一歩もレールを踏み外さないのでは、もしかしたら私たちは神の愛に十分に気が付くこともないのかもしれません。