主日の福音2001,3,18
四旬節第三主日(Lk 13:1-9)
「活かすための駆け引き」を知ろう

今日、福音朗読の後半部分に光を当ててみたいと思います。ぶどう園の主人が、3年間実のならないいちじくの木を辛抱した後の話です。ここでは、主人が「実を期待しているのにならないから、切り倒せ」と話し、それでも園丁はもう少し食い下がる、というところがポイントだと思います。

ぶどう園の主人と、園丁のものの考え方から触れてみたいのですが、二通り考えられるかもしれません。一つの考え方はこうです。ぶどう園の主人は、わりあい見切りが早い。土地をふさがせておくのがもったいないと考えている人。そして、園丁はそれを「まあまあ」となだめている。

もうひとつは、皆さん意外に思うかもしれませんが、ぶどう園の主人、園丁ともに「実をつけて欲しい」と心から願って、どうにかして実をつける方法はないか、粘っている。そういう考え方です。

今回、私は後者のほうをとりたいと思っています。つまり、ぶどう園の主人も、園丁も、どちらも同じものの見方、考え方を持っていて、何とかしてこのいちじくの良いところを引き出したいと、一生懸命になっているということです。

私はこう考えます。主人は、自分が信頼しているこの園丁を通して、いちじくの木の良いところを引き出すために、あえて怒ってみたのではないかと。怒って、「もう切りなさい」という素振りを見せれば、園丁は必死になって、いちじくの良いところを引き出してくれるのではないか。それを狙って、怒ってみたのではないかと考えたいのです。

園丁は、「あ、また始まった。ご主人のいつものポーズだ」と思ったでしょうか。園丁はおそらく、実直な園丁で、主人が怒って見せたのを間に受けて、必死になったのではないでしょうか。そう考えると、微笑ましくもあり、どこまでもぶどう園の中にあるものの良いところを認め、活かしたい。どうにかしてその良いところをみんなで喜び合いたいという気持ちが伝わってきます。ここにも、今年の黙想会に取り上げた。共同司牧の姿がちらほら見え隠れするような気もします。

さて、物語の解説だけに終わると、私たちは今日という日を忘れてしまう危険があります。今、私たちは四旬節の中程まできています。イエス様はあと3週間ほどで、十字架にかけられて死に、復活するのです。イエス様の大きな犠牲と、そこから得られた実りを、今日のたとえ話の中に織り込んで見ましょう。

私は、父なる神とイエス様とが、このぶどう園の主人と園丁のように思えます。父と子は、私たち人間といういちじくの木を、何とかして実を結ばせたい。園丁に死に物狂いで世話をさせて、この木の良いところを引き出してあげたい。必要なら、一本一本の木のために、園丁に犠牲にもなってもらいたいと考えているのではないでしょうか。いちじくの木、ここで言う私たちが、教会の中で一人ひとり認められ、活かされていくように、何とかしようと神様はお世話してくださっているのだと思います。

私たちも、父なる神と御子イエス様との「活かすための駆け引き」を自分のものとしましょう。私が、「あの人はダメな人だ」と言いそうになるとき、どうにかしてその人の良いところを引き出そうとして、そのためには自分を犠牲にする面があってもいいから、引き出してあげたいとの一念で、相手のことを見ているだろうか、振り返っていただきたいのです。

まだまだ、私たちにはその目が育っていないかもしれません。私も、「無理無理、どうせ無理」とついつい言ってしまう口です。今日のイエス様の思いに触れて、私自身、身の引き締まる思いがしました。