主日の福音2001,3,11
四旬節第二主日(Lk 9:28-36)
「彼に聞け」って言われても…

黙想会も無事に終わりましたので、今日は一点に絞って考えてみましょう。おん父はそれをひとことで言い切ります。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。イエスに聞くこと、イエスにのみ、答えを求めること。これが、今日紹介したいメッセージです。

福音書のなかでは、当然イエス様は現に生きておられ、イエス様に直接聞くことができたわけですが、私たちは今この時代のなかで、イエス様の声を聞く工夫が必要かと思います。特に、出会う人の中におられるキリストの声を聞くために、私はどうしたらいいのでしょうか。

二つのことに、注意してみましょう。聞くために、私の心の中に、静けさが必要だと思います。日常のなかで静けさを作り出すことは、今では努力なしではできないことです。寝る前の少しの時間を、祈りというかたちで静かに過ごす。これは静けさを作り出すために特に勧められることです。

また、「イエス様の声に聞き耳を立てておく」ということも必要でしょう。ここで、ひとつの例を紹介しておきます。とある神父様が、今からもう20年以上前に実際に体験したことです。この神父様は、ある日バスに乗ろうとして、バス停に向かいました。ベンチには、当時の突っ張りだった中学生でしょうか、高校生か、よく分かりません、そういう学生がふんぞり返って座っていました。ズボンは、鳶職の人が履くようなダボダボしたズボン、髪は、当時はやっていたのでしょう、金髪の部分染めをしていました。

この神父様は、部分染めというものがあることを知らなかったのだそうですが、親切心で、その突っ張り学生に言ったのだそうです。「よお、髪の毛にペンキの付いとるぞ。落としたほうがよかっじゃなかか」。

あとで、この学生と神父様は思いがけない出会いをします。何とこの学生が、神父様が司牧しておられる教会のミサにあずかっているではありませんか。それも、髪はきれいにまっ黒に戻していました。とにかく、神父様はミサの帰りにこの学生に尋ねます。「あの時の学生は、あんたやったとね」。すると学生は、こう答えました。

「自分は、あんなズボンを履いて、髪を染めて突っ張ることが、格好いいと思っていました。でも神父さんから『ペンキの付いとるぞ』と言われたときに、自分では格好いいと思っていたけれども、人が見れば格好良くないのかなあと思って、元に戻したとです。でも、バス停におったおじさんが、神父様とは知りませんでした」。何とも微笑ましい話だと思いませんか。

この学生は、心の奥底ではイエス様の声を聞いたのだと思います。神父様が間違って、「ペンキが付いている」と言ったわけですが、心に何か空虚なものがあって、誰かにピシャッと言ってもらいたい気持ちもあったのかも知れません。それが、神父様を通してイエス様の声を聞くことになったのではないでしょうか。

日常生活のなかで、イエス様の声を聞く機会は必ず与えられます。わたしたちの心に静けさがあって、イエス様の声に耳を傾けたいと願っているなら、イエス様に聞き従い、イエス様の導きで生活を調えていくことができると思います。それは、司祭、信徒、修道者の区別なく、すべて洗礼を受けた人に同じように求められていることなのです。

「彼に聞け」。聞くことが、話すことよりも尊い。そんな瞬間が、イエス様と私たちの間にはあるのです。