主日の福音2001,2,25
年間第八主日(Lk 6:39-45)
良い木ですから、良い実を結びます
今週は朗読された箇所の後ろ半分について考えてみることにいたしましょう。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」 (43節)。これは、「良い木は良い実を結び、また、悪い木は悪い実を結ぶ」ということでしょう。そして、イエス様は、「良い木」と「悪い木」、あとで「善い人」と「悪い人」のことを話していますが、本当にイエス様が話したいのは「良い木」、それから「善い人」のことを話したいのだと思います。
聖書の中には、「神は人間を創って、良いと思われた」と書いてあります。ですから、私たちも含めてすべての人が、本当は、「善い人」です。私たちが、神様の期待通りに育っているなら、本当は、「良い実」を結ぶと思います。
二つの例を紹介したいと思います。一つは、「木」の話です。もう一つは、「ある人」の話です。
道路のそばに、木を植えています。時々、枝を切ります。木は、すばらしい力を持っているので、もう一度、枝を伸ばして、立派な木になります。神様が、木に、その力をくださったからですね。もし、成長する力を持っていなかったら、木は、一回切ったら、伸びることはできないと思います。だから、木は、本当は、すべて良いのです。
今日、新聞の切り抜きを持ってきました。目が見えない、そして、耳が聞こえない福島 智(ふくしまさとし)さんという男性が、今年から東大の助教授として働くそうです。私は、この新聞を読んで、最初はビックリしましたが、そのあとは、「人間は、神様が創ったから、すばらしいのだ」と、あらためて思いました。たとえ、大きな障害を二つ抱えていても、人間はすばらしいのだから、溢れるほどの力を持っていると思います。
福島さんは、才能があったと思います。努力もしたでしょう。けれども、すべての源は、神様が人間を創ったときに、良いと思った、すばらしいものとして創られたことが、いちばんの理由だと思います。
木は、何も考えなくても、枝を切ったあと、もう一度枝を伸ばします。人間は、何かを失った時、何も考えなくても、もう一度成長するでしょうか?違うと思います。人間は、何かを失ったとき、何もしないなら、実を結ばないのです。成長しないのです。木と同じではないのです。自分で考えて、努力しなければ、伸びないのです。
神様は、人間を創ったとき、良いと思われました。けれども、人間は、何もしなかったら、良い実を結ばないのです。二つのことが必要だと思います。自分で努力すること、そして、神様は人間を創ったとき、良いと思われた、それを心から信じることです。そして、二つのうち、私は、信じることが、大きな役割を持っていると思います。
すべての人が、「良い人として」創られました。「あの人は実を結ぶことができる、けれども、この人は実を結ぶことができない」のでしょうか?いいえ。すべての人が、実を結ぶことができるのです。良い実を結ぶことができるのです。すべての人が「良い人として創られた」ことを信じるなら、良い実を結ぶのです。
最後に、一つの反省をしましょう。私たちは、自分が、「良い実を結ぶことができる」と、信じていますか?悲しいとき、自分を信じることができますか。悲しいときも、「自分は良い実を結ぶことができる」と、心の底から信じて欲しいのです。
ある人は、私の言うことを、聞きません。「あの人は、ダメだ」と、あきらめますか?信じて欲しいのです。何度も、繰り返し言ってください。あの人も、神様が創りました。神様は、私を「良い人として」創り、あの人は「悪い人として」創ったのでしょうか。いいえ。違います。だから、「良い実を結ぶことができる」と、心の底から信じて欲しいのです。信じ続けるなら、私たちは努力し続けることができると思います。
教会活動の中で、神父様だけが神様から「良い人として選ばれた」のではありません。みんな、一人ひとりすべての人が、「良い人として」選ばれています。お互いに、「私も、あなたも良い実を結ぶことができる」ことを信じましょう。そして、教会の中で、一人ひとりの知恵を出して、この教会が、社会に対して「良い実を結ぶ」ことができるように祈りましょう。