主日の福音2001,2,18
年間第七主日(Lk 6:27-38)
なかなかいい研修会でした

先週の火曜日から木曜日にかけて、2泊3日で教区司祭の研修会が行われました。新聞で訂正の記事を入れておきましたが、研修会のテーマは、「小共同体づくり」というものでした。その道で私たちよりもずっと先を進んでいるお隣韓国のソウルから、日本語ペラペラの司教様と、韓国語しか話せないけれど、「小共同体づくり」についての専門家の神父様という組み合わせで、私たちの研修指導をしてくださいました。まずは、「小共同体」という言葉から説明したいと思います。

ソウル大司教区では、一つの教会(たとえば太田尾教会)の信者数が平均で 6200人もいるそうです。その信者さんに、きめ細かなお世話を教会としてするためには、たとえ有能な司祭であっても、主任司祭がひとりでまかなうということは不可能です。そこで、5人とか、10人とかの班を作りまして、そこにひとりずつ班長を置いて、班長さんと連絡を取り合いながらお世話をすることになりました。

太田尾教会でも同じことなんですが、たとえば 315人いるこの太田尾教会で、私がひとりでお知らせをします(火曜日から木曜日まで研修会で長崎におります)。皆さんがそれを承知しておられるはずなんですが、帰ってみると留守電が入っていたりします。ごめんなさい、誰かを名指しで言うつもりはないですからね。「もしもーし。もしもーし。あら、おらんばい。」これで、済めばいいですが、火曜日、水曜日、木曜日まで「もしもーし」と連絡を入れたとすれば、いくら神父様がお知らせすれば利けると思っていても、必ずしもそうでもないことが分かります。

そこで、5人から 10人の班に分かれて、班長さんが「神父様は火曜日から木曜日まで研修のために長崎においでです」とお知らせしてくだされば、三日続けて留守電を入れた人も、班長さんに尋ねておけば余計な苦労はしないことでしょう。こうして、5人から10人の班でお世話をするようにしたところ、10年で見違えるように信者みなが強い絆で結ばれていったのだそうです。

もしも、ソウルの教会で主任神父様がひとりで地区集会をするとしたらどうなるでしょうか?平均 6200人います。一生かかっても、地区集会ひとまわりできないことでしょう。もしも、敬老者のお見舞いを主任司祭がひとりでするとしたらどうでしょう?その主任神父様は帰ってきたときにはもう病院行きかも知れません。

まったく同じことが、日本の教会に当てはまるわけではありませんが、5人くらいの班が、助け合って生きていくなら、太田尾・間瀬教会は確かにもっときめ細かい配慮ができるようになるのではないか、と思っています。この点は、黙想会で詳しく検討することにいたしましょう。

次に、この小共同体を活かす力の源についてお話しいたします。韓国からおいでになった神父様は、それは疑いもなく聖書と御聖体だと仰っていました。御聖体拝領は、こうしてみな集まっていただくので、ここではお話しいたしませんが、5人とか 10人の集まりで、聖書を読み、味わうようにしたことが、「小共同体づくり」にとって決定的だったのだそうです。

「聖書を読み、味わうと言っても、おいたちは聖書は勉強したことなかばい」皆さんそう仰って、尻込みするかも知れません。ですが、ソウル教区では、信徒ひとりひとりに神様から注がれている賜物を信じて、聖書の分かち合いを信徒同士で続けているのだそうです。

専門的なことはもちろんできません。聖書学的にどうだこうだとか、歴史や背景を綿密に確かめての話は、当然無理ですが、5人 10人集まりさえすればできる、そういう部分もあるのです。あとは、うまく根付くために司祭やシスターがたとえば班長さんを指導するという形を取っているみたいです。

ここでようやく今日の福音に入りますが、お説教台で話すのは、これは聖職者に限られていますから、致し方ありませんが、今日の聖書の箇所を、5人集まってもう一度分かち合ってもらえたらと思います。今から一つのやり方を紹介しますので、誰かの家に5人集まって(4人でもいいんですよ)聖書を持ち寄って実験してみてください。

こういう形です。ひとまず、聖書の箇所をゆっくり読みます。どれくらいゆっくりか。これくらいです。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」。念のため、もう一人読みます。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」。それから、今日わたしの心の扉を開いてくれた「短い一節」(この「短い」というのが大切なのだそうです)を取り上げて、一人ずつ、5人全員、声を出して3回繰り返して唱えてみます。

たとえば、今日中田神父にとっては、この言葉が心を開いてくれました。「求める者には、だれにでも与えなさい」「求める者には、だれにでも与えなさい」「求める者には、だれにでも与えなさい」。3回唱えて、次の人にバトンタッチです。

基本的には、これだけです。あとは、めいめい、心に浮かんだことを分かち合っていきます。「求める者には、だれにでも与えなさい」。与えてません。人を選んでいます。うるさい人は避けようとしています。中学生高校生にはホイホイ与えるくせに、面倒な人が尋ねてくると、早う帰れという顔をしているかも知れません。まあこれくらいは、皆さんも分かち合えるのではないでしょうか。

ここでいっしょに考えて欲しいのは、 6200人に対して主任司祭一人とか、あるいはいても助任司祭と合わせて二人という教会で、今のような聖書の分かち合いは続いているということです。つまりそこでは神父様はたまに来るのであって、聖霊が、信者一人ひとりに賜物を注いでおられることを信じて、5人くらいで続けているということです。どうしても引っかかるとき、司祭の出番なのです。

そっくりそのまま、私たちの教会に持ち込むことはできないかも知れません。けれども、長崎教区の全司祭が今回研修を受けましたので、私は、黙想会を出発点として、ぜひ取り入れていきたいと思っています。

私たちの教会にも、遅れを取り戻せるくらいの溢れる賜物が与えられ、それを活かすことができますように、続けて祈っていくことにいたしましょう。