主日の福音2001,2,11
年間第六主日(Lk 6:17,20-26)
つきつめていくと、キリストの自由

今日の福音のメッセージ、今の私には何と難しいことでしょう。「貧しい人々は、幸いである」。パソコンも持っています。エアコンのある部屋で暖かくしてお説教を作り、せいトマスを作りました。「今飢えている人々は、幸いである」。腹のまわりには、「鬼は外福は内」と言って、ちぎって投げていいくらい余計なものがついています。

今泣いている人々は、幸いである。私は人の痛み・苦しみ・悩みを見聞きしながら、たった今のことで言えばハワイで潜水艦と衝突した愛媛の訓練生の事故を見て、泣くのではなくそれを聞いて、話の材料にしようと考えてしまいます。

「人々に憎まれるとき、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」どれも、どこにも当てはまらないような気がします。

何が当てはまっているか。「富んでいるあなたがたは、不幸である」何でも有り余っています。「今満腹している人々」ときおり、食事の時にこう言います。「あー、まだこの時間は入らないなあ」。「今笑っている人々は、不幸である」事件や事故、政治の腐敗、汚職、ひっきりなしに飛び込んでくる話題に、「おいおいおいおい、困ったもんじゃねぇ」と、笑っています。

誰が幸いで、誰が不幸か。神父様とシスターが幸いか?シスターは幸いな人も多かろうけれども、どうも目の前の神父は幸いではないみたい。このまんまの状態が続いたら、いったいどうなるのでしょうか?たぶん、「あなたの不幸は、あなたが呼び寄せた。自業自得です」と厳しく咎められることでしょう。

けれどもイエス様は、人間がひとりでも滅びることは、お望みではありませんので、時を過たずに、私たちに立ち返りの道を用意してくださいます。それも一回きりではなく、今が立ち返りの時よと言って、何度も何度も呼びかけてくださる方です。今日の福音しかり、年の黙想会しかり、御復活祭しかり。

そこで、私たちも、本当の幸せって何なのか、まじめに考える必要があると思います。今日イエス様は、本当の幸せについてよく考えることで、一人ひとりに立ち返りの道を用意してくださっているわけです。

ちょうどと言いましょうか、たまたまと言いましょうか。「本当の幸せって何?」ということを考えるのにピッタリのお話を聞きましたので、ここから考えてみたいと思います。とある、二十歳の青年の話です。

その方は、二十歳になったばかりで、あと6ヶ月とお医者様から言い渡されました。日に日にやせ衰えていきます。そういう中で、同じ病室にいる患者仲間が退院していくのを、何人も見送ったのだそうです。笑顔を作って、口では「良かったな。これからは健康に気いつけてや」と言って、見送りますが、心では、退院していくすべての人に、「もっとひどい病気にかかって、はよう戻ってきいや」と言っていたのだそうです(わたしは、その気持ちはよく分かる気がします)。

退院する人は、年齢はさまざまですが、家族の元へ帰る気持ちで、みながみな、ウキウキしていると言います。それがよく伝わって、悔しかったり、憎かったりしたのだそうです。「あ〜、来週から仕事かあ」そう口では言っていますが、嬉しさを隠しきれないのがよく分かると言います。

ところが、いっこうに快復の兆しの見えない青年は、ある時考え方が変わりました。「どうして心の底から、人の幸せを喜んであげられないのだろうか。自分の病気が不幸に思えるからと言って、人の幸せをねたみ、憎しみのもとにしていいだろうか?」このころから青年は聖書に興味を持ち、聖書の中のイエス様によって心を開いてもらいます。

「自分一人では、病気の中で人の幸せを願ってあげることができない。自分の病気に負けてしまう。イエス様はそんな私を見て、そばにいていっしょに苦しみを担っておられるのではないだろうか?」

「病気そのものは不幸かも知れないけれど、病気に縛られて病気の奴隷になっている人はもっと不幸だ。イエス様は病気の私に、病気の奴隷になっちゃいけない。病気に縛られ、人の幸せを願わない曲がった人間になってはいけないと、今そばにいて励まし、私を自由にしてくださっている。だったら、このイエス様に自分を託してみよう。」そう思ったのだそうです。

この人は、洗礼を受けました。病気は、一度も好転せず、召されていきましたが、「人間の本当の幸せは、心が自由なことだよね」と、語ってくださったのだそうです。

富で満たされていると思っている人も、もしかしたら富の奴隷かも知れません。それは、貧しさに卑屈になっている人も貧しさの奴隷と言えないこともありませんが、いずれにしても、私たちはイエス様以外の何物にも、幸いを与えてもらうことはできない。そのことをしっかり押さえて、この世の良いのもにも悪いものにも、結局はどちらにも縛られないような生活を、探していく必要があると思います。

この世の何物にも縛られないことが、まずはイエス様に心を向ける初めの一歩です。そして、さらに踏み込んで、イエス様にのみ解放していただく、イエス様から幸せをいただく、そのように生活を変えていくことができるように、ミサの中で続けて祈っていくことにいたしましょう。