主日の福音2001,2.4
年間第五主日(Lk 5:1-11)
単純で、奥の深いものってなーんだ

先週私は、皆さんに公約した通り、五島の福江というところに行きまして、毎年恒例となっています「司祭団マラソン大会」に参加してまいりました。私は九年間のうち八回参加しておりますが、最初の四回は今黒島におられる神父様に次いで二着だったんです。そういう時代もあったんです!

それから三着が一回あって、ここ三年ほどは成績は振るいませんでした。ちなみに今年も、序盤で酒井神父様に追い抜かれて、そのまま追いつくことができずに、四着に終わってしまいました。三着までと、四着以下とは雲泥の差です。表彰状がもらえないのです。これでは小学生にも威張れません。やっぱり自分の子供のような小学生たちに威張れるなら、それだけでも行って来た甲斐があるというものですよね。

もはや順位も狙えない、走っても過去の栄光はズタズタに引き裂かれるのに、なぜそうしてまで出かけるのでしょうか。私なりにいろいろ理由があります。

今年出かけてみて、ちょっぴり寂しかったのは、いっしょに叙階した同級の神父様は、誰も参加してなかったことです。たかだか8キロ、9キロのマラソンです。膝の故障とか、入院とかではありませんよ。そこまで様子を見に来ているのに、出場しないのです。あんまり同級生の悪口を言ったら、シスターの糸電話で伝わってしまうかも知れませんが、かえってそれは、私を奮起させました。

それから、私が四着で、9キロを4230秒かかったことは棚に上げて話しますが、後輩たちがさらに根性がない。私よりも六つも七つも、どうかしたら八つも年下なのに、「あお、きっつぁよ!」という顔をして、私のはるか後ろを、てれてれてれてれ走っているわけですよ。どうもないのでしょうか?

もうそろそろマラソンの話は終わりますが、走り終えて整理体操をして、温泉施設に向かう車に乗っても、まだ後輩たちはゴールをめざして「はあ、きつかぁ」という顔をして走っていました。私も口が悪いものですから、「もうお前たちはご馳走は食うな」と、内心思ってしまいました。よく考えてみれば、彼らなりに頑張ってはいるのでしょうが…。

年を追うごとに、走りに行けば自分の走りが情けなくて、気が重くなるのに、どうして走るのでしょう?その、もっとも単純で、奥が深い理由は、「そこに、『司祭団マラソン』があるから」、ということです。行っても何のメリットも感じられません。何か突然の幸運で、私が優勝するなんてことはあり得ません。それでもこの時期になると、ついつい足が向いてしまうというのは、走る人みんなが司祭で、老いも若きも精一杯自分と戦って決められた距離を走り、走り終えるとお互いをたたえ合う。その何とも言えない達成感を、わざわざ味わいに行くのだろうと思います。

じつは今日の福音の、不思議な大漁にも、たった今マラソンを通して分かち合ったことが込められていると思います。ペトロを含む何人かの漁師は、イエス様から「網を降ろしなさい」という命令を受けます。何のために網を降ろすのか?こんな日が高くなってから、まったく期待はできません。経験からしても、まぐれでも魚はかかるはずもありません。ペトロは代表して、ていねいに断りました。

「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。網を降ろすのに、目標がないのです。漁師のプライドが許さないのです。群衆は私たちの船を見ている、ここで網を降ろして、空の網を上げることになれば、プライドはズタズタに引き裂かれるのです。この先生は、これほどの頭脳の持ち主でありながら、そういうことも分からないのだろうか?

ところが、ペトロの頭の中でいろいろ並べ立てた「なぜ網を降ろす必要があるのか?」を越えて、イエス様の言葉は彼を駆り立てます。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。断りを言うときは、「私たちは、何もとれませんでした」と言いましたが、引き受けるときには、「私は、網を入れてみましょう」という表現になっているのだそうです。なぜそこまでして網を入れるのか?そこには、単純で、しかも奥の深い理由があるのです。「イエス様が命じたから」。

誰かが偉大に見えたり、物事の崇高さに心を打たれたりするとき、ある場合それは人を寄せ付けないこともありますが、イエス様の偉大さ、崇高さは、すべての人間的なものを捨てさせて、その人をご自分の元へ引き寄せるのです。人の目には愚かに見えても、人の目を振り切ってでも自分を駆り立てていく何かが、イエス様の言葉、一つひとつの行いにはあるのではないでしょうか。

ペトロが恥も外聞も捨て、プライドもかなぐり捨ててまでイエス様に従った理由は、どこをどう読み返しても、「お言葉ですから」以外に見あたらないのです。

福江のマラソンの話で言い忘れたのですが、偽造した招待状でおびき出そうとした「黒い島の神父様」はとうとう見えませんでした。やはりいろんな口実を振り切ってまで、弟神父様をおびき出すためには、人間の力ではなくて、イエス様の力が必要なのかなあと思いました。イエス様がとある弟神父様の心に呼びかけて、「走ってくれないか」と仰らない限り、来てはもらえないのかも知れないと思いました。

イエス様は、どこでどういう形で私たちに声をかけるか分かりません。「どういう風の吹き回し?あの人が教会に来たよ」ということになるかも知れません。その人が過去も、プライドも、すべてを振り切って教会にもう一度足を向けてくださったのですから、私たちは喜んで迎えようじゃないですか。決して、今までと同じ目で、見ないことです。そのためにも、いつそういう状況が起こるか分かりませんので、今から私たちも変わっていくことにいたしましょう。

きっとこの人には、すべてをやり直して教会につながりたいと思わせるような、イエス様とのはっきりした出会いがあったに違いない。それだけでいいではないですか。一人でも多くの人が、「お言葉ですから」という、あの単純だけれども奥の深い呼びかけを理解することができるように、続けてミサの中で祈ってまいりましょう。