主日の福音2001,1,28
年間第四主日(Lk 4:21-30)
縁故主義ではイエス様は理解できない

今日の福音朗読箇所は、きれいに先週の続きになっております。先週の話の展開をもう一度思い出すと、今週の朗読も読みやすいと思います。

先週の朗読では、イエス様が出来事の中心にいて、私たちがその中心に導かれて、イエス様がすべての中心におられることに気付いたなら、今度は私たちから外に働きかけて、社会を、あるいは世界を変えていけるんだという話でした。

その話の延長線上に今日の出来事はあるのですが、イエス様は、あくまでもご自分はすべての人にとっての中心であって、誰かと特別に親しくなったり、ひいきしたりはしないという態度を保っておられます。ですが、話を聞いている会衆は、そうではなかったようです。昔も今もあったのでしょう、「縁故主義」を無意識のうちに持ち込んでしまい、イエス様との関係をゆがめてしまいました。

話を簡単にすると、こういうことです。「よその土地であっと驚くことをしたのだから、郷里のここでは、同郷の私たちには、もっと特別なサービスをしてくれて当然だ」ナザレの会堂に集まる会衆は、イエス様は自分たちの見方で、いやそれ以上に、郷里の私たちにひいきするくらいで、ちょうどいい関係なんだと、思い込んだのです。

その思い込みは、たとえばこういうことかも知れません。郷里から選ばれた国会議員さんが、郷里のために橋を架けてくれたり、広い道路を通してくれたりするのは当たり前で、私たちが当選させてやったのだから、それくらいひいきしてくれて初めて、自分たちが選んだ国会議員さんとして認められる、そういう感じでしょうか。

政治や経済の関わりで例を挙げると、ちょうど当てはまるというのですから、ナザレに集まった人たちが期待していたことが、いかに世間的で、打算的だったかが分かると思います。「この人はヨセフの子ではないか」という言い方は、「どこかの殿様の家に生まれたとでも思っているのか?私たちの地元で生まれたくせに、私たちにサービスしないとは何事だ」と、イエス様が出来事の中心にいてくださることではなくて、会衆にとって都合の良い場所に、イエス様を引きずり込もうとしているわけです。

イエス様はそういう魂胆がはっきりと見て取れたので、みずからその輪の中から出ていこうとされます。ナザレの会衆の期待する中心に留まることは、イエス様にとってすべての人の中心に留まって、すべての人に影響を与え、すべての人の心を変えていくことには決してならない。そう考えたのです。

「あなたたちのご機嫌取りはしない。正面から、神様を生活の中心に据えて暮らしたいと願っている人々のもとに、わたしは出かけます」そう宣言するイエス様の姿は、縁故主義・血縁、地縁のもとでしか考えることのできない人々を激怒させ、イエス様を崖から突き落とそうとする、とんでもない行動にまで及ぶことになります。自分たちの都合に合わないこの人は、もはや救い主でも郷里のヒーローでもなく、縁故主義に凝り固まったあわれな人々とずばっと切られたことで、目の前から消し去ってやりたい「敵」に変わってしまったのです。

私たちはどうでしょうか?幸いにと言いましょうか、イエス様と血縁関係でもありませんし、先祖を辿ってもそういう縁故は絶対に見つかりません。ではその幸いな私たちは、イエス様が「白」と仰ることを、そのまま「白」と賛成してきたでしょうか。

じつは今日の日曜日の説教にたどり着く前に、土曜日の朝にこういう話をしました。聖書の箇所は、「嵐を静める」という箇所だったのですが、イエス様はもしかしたら嵐に遭遇することもご存知だったかも知れない。それならどうして、早めに手を打たなかったのか?何も溺れそうになるまで待たなくても良さそうなものなのに、と呼びかけました。

最終的に、イエス様はギリギリまで手を差し延べませんでしたが、私たちが「どうしてもっと早く手を差し延べてくださらないのか」と考えてしまうのは、これこそ、イエス様が「白」と考えておられることに意見して、「そういうやり方は黒」と言っているのではないか、そんな感じの話でまとめたんです。

きっと、イエス様のなさり方のほうに大切な意味があるに違いない。こういう気持ちにいつも向かっていけばよいのですが、イエス様が出来事の中心にいて、中心となる大切な意味はここにあるんだよと仰っているのを、どうも私たちは認めたがらないのです。

どうして私だけ苦しいのか、どうして私は慰めてもらえないのか、どうして教会はミサに来い、祈りをしろ、告解をしろ、教会維持費を払えとうるさいのか。そういう思いはすべて、イエス様が中心にいて、イエス様が大切な意味を教えてくださるということを認めたくない気持ちの表れではないかと思うのです。

今目の前で起こっていることにイエス様が示そうとする意味を探そうとしないのは、イエス様を中心に置きたくないからです。歴史の中で培われてきた教会運営のやり方、信仰育成の手段に頭から反発するのは、やはり、イエス様はこのやり方で私たちに何を願っておられるのだろうか、そんな気持ちを持てないことからすべては始まるのではないでしょうか。

私たちにはイエス様に対する地縁・血縁の期待はないはずです。そうであれば、私の生活にイエス様をしっかりお迎えすることに、じゅうぶんに心を開きたいものです。知らず知らずのうちに、イエス様を山の崖から突き落とそうとする者の一人になることのないよう、常に心を開いておきましょう。