主日の福音2001,1,21
年間第三主日(Lk 1:1-4,4:14-21)
「あなたがたが耳にしたとき」実現する

今年、1月8日の成人の日に、とある陶芸家が次のような言葉を新成人者に向けて話していました。「焼き物を作るとき、ろくろを回していくけれども、ろくろにのせた粘土の中心は、決して回らない。この粘土の中心を捉えることができなければ、陶芸家にはなれない。

今年、大人の仲間入りをする皆さんに伝えたいのは、この粘土のように、回りにある物事は、どんどん変化して回っているけれども、自分という中心はそうした回りに振り回されず、どっしりと構える。そんな、中心のある人間として、これからの人生を歩んでいって欲しい」。あー、いい言葉だなあと思いました。

今の話は、一つのたとえですが、今日の福音を考えるきっかけとして取り上げてみたいと思います。じつは、今日朗読された福音は、ルカ福音書のいちばん最初の部分と、ちょっと離れている箇所をくっつけて読み上げられていました。境目は、「イエスは『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた」で分かれております。

さて、この後半部分の作りをちょっとだけ説明しておくと、ルカは私たち読者の目を、最初は少し広い場所から、だんだん狭めていって、中心部分に向かっていくように自然と案内しています。

いくつかの言葉を拾って説明しますと、最初にガリラヤという地方を紹介し、次にガリラヤの中でもお育ちになったナザレに私たちの目を向けさせます。ナザレに入ると、さらにナザレの会堂、会堂の中のイザヤ書(これは旧約聖書ということでしょうか)、そして、イザヤ書を受け取ったイエス様へと、だんだんと私たちの目を「ルカが案内したい中心」へと向けさせているのです。

ここまでをまとめておくと、ルカは、ガリラヤという広い土地から始まって、だんだん場所を狭め、最後には物語の中心であるイエス様に、私たちみなを注目させてようとしている、ということです。その、紛れもない証拠が、最後のほうに書かれている言葉です。「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」。これは、私たちをも含めて、すべての人の目が、世界の中心、救いのみ業というたいへん大きな出来事の中心におられるイエス様に、今注がれているわけです。

ここまでは、よろしかったでしょうか。もう少し、話を進めていきましょう。この、すべての物事の中心で、変化することなく、回りにも流されないイエス様は、中心にいてすべての人に一つの言葉を語られました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人に開放を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる。この、誰もなしえなかった力強い救いの業が、イエス様が中心に立ってくださることで、始まった、実現したのです。

ここで、私が強調したいのは、さりげないですが聞き逃すかも知れないひとことです。それは、「あなたがたが耳にしたとき実現した」、という言葉です。

人間を救うという大きな働きは、神様がことを始めなければ、もちろん始まることすら不可能ですが、それは、私たちが心を開いて、あるいは耳を澄まして「聞いたときに」実現すると言っているのです。イエス様が語り、あるいはお手本を示すとき、それを聞き、あるいは見た私たちが変えられていくときに、本当の意味で神様の救いの計画は大きく動き始めるのではないでしょうか。

先の、粘土の話と通じることですが、中心があります。そして、中心に近い場所は、一周回るとしてもそう大きな動きをするわけではありません。さらに、それよりも少し遠い場所は、もう少し大きく回るでしょう。こうして全体としては、中心からいちばん遠くになると、大きな動きに変わっていきます。

じつは私たちの働きも、これと似たような動きをするのではないか、と思うのです。イエス様という中心に触れて、私たちは少しずつ変えられ、周りの人にそれを伝えることになります。私が変えられて、隣の人に伝えていく動きはそう大きなものではないかも知れません。ですが、このような一連の動きは、最後には大きなうねりとなって、ナザレという小さな村を動かし、ガリラヤ地方を動かし、ついにはユダヤ全土、また全世界をも動かす力となっていくのです。

昨日私は、もうすぐやってくる司祭団マラソンに向けて、練習を再開したのですが、はりきって間瀬まで行ったのはよかったんですが、帰り道、浜岡工業あたりでは「誰か車と行き違わんかなあ」と思いながら、あえぎあえぎ走っておりました。そうしたら幸いに、「渡りに軽自動車」、ちょうどいいところで車が通りまして、「すまんすまん。中戸まで乗っけてくれ」と言って、また中戸から涼しい顔で、さも往復して走ってきたような顔をして帰ってまいりました。

今日は幸いに雨が降りまして、サボっておりましたところ、フィリピンのエストラーダ大統領が民衆によって追放されるニュースが飛び込んできました。十数年前にも、マルコス大統領が追放される事件を食い入るように見たばかりですが、今回もまた、民衆が「正義」「真理」に動かされて大きな力となったわけです。その「正義」「真理」とは、カトリック国のフィリピンのことですから、疑いもなくキリストのことだったのではないでしょうか。

一人ひとりは、私もフィリピンに研修に行ったことがあるのでいくらか知っておりますが、とても貧しい人たちです。けれども、決して倒れない真理であるキリストに動かされて、一致団結して今回の大きな業を成し遂げたのだと思います。

イエス様は、今日私たちに招いてくださいます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。私たちが、少しずつでもイエス様に変えられて、この世の不正や差別、偏見に流されないで、イエス様という中心に導かれて動く決心をするなら、社会は大きく動かせるのです。イエス様の働きは、今も、私たちが耳で聞いて、私たちが変わろうと決心するときに、今このときにも実現していくのです。

生活の中心をイエス様に求める。善悪の基準をイエス様に求めることで、私たちの社会にキリストの望みを行き渡らせることができるように、力を願い求めることにいたしましょう。