主日の福音2001,1,14
年間第二主日(Jn 2:1-12)
それをくんで、持って行きなさい
今日の、福音朗読のいちばん初め、「その時」と書き換えているところには、もともと「三日目に」という言葉があります。どうしてそのまま載せないのかなあと思うのですが、いちおう、あるものと思って今日のお説教は組み立てています。
ヨハネは、時間とか、場所とかを慎重に書く人ですから、「三日目に」と書いてあるということは、それは意味があると考えるべきです。「その時」とは大きな違いがあるんです。じつはそういう意味で、そのまま載せて欲しかったのですが。
で、何の三日目かと思って、聖書を少し前に戻って読んでみると(皆さんも、ぜひあとで少し前を読んでくださいね)、はっきりしないんですね。「その翌日」で始まる記事が、連続で三回も出ている。そうなると、三日目にというのは、意味がないのかと不思議に思います。
ここでは、もう一つの面から考えるべきでしょう。それは、「イエス様の復活」ということとの結びつきです。イエス様は、「三日目に」復活されました。だれでもそれくらい知っています。ヨハネも、いちおうその知識を当てにして、「三日目に」と書いたのかも知れません。だから、今日の朗読を考えるときに、復活したイエス様と結びつけて考えると、大切なことが見えて来るんだよと、ヨハネはにおわせているわけです。
私はこう考えました。イエス様は水をぶどう酒に換えました。水は、この場合、「色も味もない」と考えてみましょう。それを、(復活した)イエス様はぶどう酒という喜びを与えるものに変えてくださいます。日常生活という、何の変哲もない場所、決まった人と毎日顔を合わせる限られた生活、そんなものが、イエス様と出会って、イエス様を知った日から、喜びを生み出す場所・出会いに変わるということなんです。
イエス様が奇跡を起こされた水の量はどれくらいだったのでしょうか。だいたい、600リットルくらいを考えてください。お風呂にいっぱいに水を満たして、それを3倍くらいと考えたらいいでしょう。それだけの量のぶどう酒といえば、それはもう汲み尽くせない量という意味です。ですから、(復活した)イエス様は私たちの日常においでくださり、平凡なもの・退屈な出会いの中にも、汲み尽くせないほどの喜びを与えてくださると取ることができます。
何となく、教会に来ているかも知れません。あまり感謝することもなく、毎日を過ごしているかも知れない。イエス様がいつも目を注いでくださって、私たちを支えてくださっている。確かに、この信仰で変えられた、救われたという体験を一度でも味わうと、イエス様と出会った喜びは汲み尽くせないのです。
もう一つ、今日の福音で、召し使いに言いつけた次の言葉にも注意を払いましょう。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」 (v.8参照)。「それ」とは、イエス様によって変えられた「水」です。もとは何の変哲もない「日常」でしたが、イエス様との出会いにはっきり気が付いたときから、喜びを生み出すようになった「日常」です。その、「ぶどう酒に変わった水」を、「持って行きなさい」と呼びかけるのです。これはつまり、福音宣教のことを暗示しているのではないでしょうか。あなたが、イエスによって変えられた日常を、何気なく思える出会いを、運んでください。そう願っているのです。
最後に、問題提起をしておきましょう。「それをくんで、持って行く」のですが、どうやて汲むのでしょうか?汲むものはお持ちですか?
祈りを通して、私たちはイエス様の汲み尽くせない恵みに触れることができます。また教会の活動や、行事によっても、イエス様の恵みに与るでしょう。さらに病床にある人であっても、苦しみ・痛みを捧げる中で、イエス様の宝に触れることができます。イエス様が喜びに変えてくださる日常は、汲み尽くせないほど多岐に渡り、広く深いのです。
生活を振り返り、私は何をもって、イエス様が変えてくださる日常から、恵みを汲むことができるか、自分に問いかけてみましょう。「これかなあ」と思うものが見つかれば、どうぞ運んで行ってください。もし、汲むものをお持ちでない、汲むものが見つからない方は、熱心に、このミサの中で「私にも、汲むものを与えてください」と願うことにいたしましょう。