主日の福音2001,1,1
神の母聖マリア(Lk 2:16-21)
マリア様は神の計画を堪能していた

皆さん新年明けましておめでとうございます。何もかもが新しくなりました。21世紀に入りました。今年一年が、祝福に満ちたものとなるよう、心から祈り合いたいものだと思います。

過ぎた一年は、何でこんなことが思いつかなかったのだろうか、そんな発見に満ちた一年だったと思います。大聖年ということで、長崎教区じゅうに誇れる、小教区としての足跡を残そうと、年頭にあたって頭をひねったのは、ついさっきのことのようです。聖書通読リレーは、見える形になったひとつの足跡ですが、私の中では、「どうしてこんなことに気付かなかったのかなあ?」という経験をたくさん積ませてもらいました。

それらを一つひとつ並べる必要はありませんが、私の心の中では神様に感謝しています。気付かせてくださったことに感謝しますし、気付かせてくださったたくさんの方々に、心から感謝します。本当のところはどうなのか?なるべく先延ばしにしようとしていたことに、正面から向き合うチャンスを、一年間たっぷりいただいたと思っております。

皆さんにも、このお説教の場を借りて、できる限り私の中にあるもの(それは私自身のつたない信仰と言ってもいいですが)を毎度毎度全部さらけ出して、分かち合ってまいりました。考えるきっかけになったり、お一人お一人の信仰の歩みを確認したり、決断の後押しとなったり、そんなきっかけになったことがいくらかでもあれば、幸いだと思います。

さて、今日の福音にも、じつは「ああ、何でこんなことに気が付かなかったのだろうか?」という箇所に行き当たりました。それは、イエス様の誕生が、なぜ最初に羊飼いたちに知らされたのだろうか、ということです。

これまでは、中田神父は神父のくせに、よく祈って考えてなかったと思います。簡単に専門の書物を読み、それをいいとこ取りしてお説教の紙をまとめていた、その繰り返しだったことに気付いたのです。

もちろん、専門の解説書は、大変貴重なヒントを与えてくれますし、それなりの根拠もあります。ですが、問題なのは、私が、中田神父が、自分の信仰、自分の体験に照らし合わせて、どんな答えを導き出すか、どんな紹介の仕方をするか、そこにほとんど目を向けてこなかったのではないかと、この年の晩になってようやく気が付いたのです。

羊飼いは、毎晩野宿をして羊の世話をします。彼らは旅をしながら移動していきますから、自然とたくさんの人に出会うし、たくさんの土地に出かけていくことになります。彼らは、その当時考えられる、誰よりもあちこちに出かける人々だったのではないでしょうか。多くの土地に、生活の必要から移動して回りながら、幼子のことを天使が話したとおりに話して聞かせた。考えてみると、彼らが当時としてはいちばんの適任者だったのではないかと思ったのです。

まあ、私の体験と、つたない信仰の中から出たものですから、そうそう高尚なものは出てきませんが、大切なこと、過ぎた一年で身にしみて分かったことは、もう答えは目の前にある。目の前にあるのに、どうして気が付かなかったのだろうか、そんなことなんです。

ほんとに自分の中から出た答えでないと、伝わらないし、生きた言葉にはなりません。今言っているのは、私自身の抱負ということになりますね。どうぞ皆さんも、とても単純な仕掛けで、神様は大きなことを成し遂げられる、たとえば羊飼いを使って、ニュースをユダヤじゅうに広めたように、皆さんの目の前のもの、目の前にいる人を使って、そんなささいな仕掛けで、とてつもないご計画を前に進めて行かれるということを、年の初めにあたって肝に銘じておきましょう。私たちの生活は、神様の手の中にあって、神様のお考えの外では何事も起こらないわけですが、それは同時に、神様の手の中にあるということは、それがそのまま、すごいこと、素晴らしいことなんだということを、この一年の歩みの中で、堪能していくことにいたしましょう。

今、まとめとしてマリア様の態度を紹介しておきたいと思います。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。マリア様はすでに2千年前に、この神様のなさり方を堪能しておられたのだと思います。