主日の福音 2000,12,31
聖家族(Lk 2:41-52)
イエス様はきっと悩まれた

今日の福音で取り上げたい点は、12歳のイエス様が、ずいぶん悩んで出した結論です。「生まれた方が、産んでくださった方よりも優れている」という、後にも先にも例のないご自分の生い立ちを、ご両親にいつかは示さなければなりません。イエス様は、そのために12歳になられたこのときをお選びになったということです。

「鳶が鷹を産んだ」という言い方は、素晴らしい子供さんに恵まれた家庭に当てはめて言われることですが、それさえ、子供さんが出世して、大成したという話に過ぎません。そこではやはり、両親の育て方が良かったとか、家庭環境が素晴らしかったとか、何か原因があるものです。

ところが、イエス様は神がこの世にお遣わしになった御子です。マリア様から生まれましたが、マリア様より優れていました。それは、お生まれになる子は、救い主だったからです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(Lk 2:11)。これは、両親の育てかたでも、家庭環境でもなく、神と人という、決して超えられない差なのです。

イエス様は、神としてはこの世に生まれたその瞬間からすべての知恵に満ちていましたが、人として、マリアとヨセフの一人息子として、12歳から13歳の年齢をお選びになって、神の子として、エルサレムの神殿で礼拝されている天の父に従う道を、悩んだ挙げ句にご両親にお示しになったのだと思います。

当時、13歳になると、男子は律法の務めを引き受け、これを果たしていく年齢でした。今で言うと堅信組、大人の仲間入りをする時期です。今でもエルサレム神殿の壁のところで、ユダヤ教の子供たちが木曜日ごとに律法の務めを受け取る儀式をおこなっています。イエス様はだいたいその時期を、ご両親にご自分のことをきちんと伝える時期としてお選びになったのではないでしょうか。

イエス様は、どれくらい悩まれたのでしょうか?ご自分をここまで育ててくださったご両親に、私は天の父の子として、父なる神に従って生きる使命を持っていますと、いつかは伝えなければなりません。小さな胸を、どれほど痛めたことでしょう。

ルカは、そのあたりの悩みを、表だっては記しません。ただ、マリア様の心配が、子供は親の言うことを聞くものだ、親に従うものだ、という心配に立っていたことをそっと伝えるために、マリア様と距離を置くような言い方をイエス様にさせたのでしょう。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。これは、マリア様の言葉に答えて、「そうです。子供は、親の言うことを聞くものです。私は、神の子として、父なる神の声に聞き従う必要があるのです」と、答えたかったのではないでしょうか。

あえて、もう一つ触れるなら、イエス様とご両親は、三日の後に神殿で再会しています。ご両親はそれこそ自分の子供への心配で心はいっぱいだったでしょう。けれどもイエス様は、三日間悩み抜いて、今日のような言葉をご両親に伝えたのではないでしょうか。

イエス様は、きっと悩み抜いたのでしょう。私たちは、本当に悩み抜いて、ひとつの結論を出すということが少なくなりました。ものすごく楽に生きているのかも知れません。便利なものに溢れ、便利さを追い続けて、今の暮らしにたどり着いたのかも知れません。

イエス様の悩む姿に、わたしたちの家族を重ねてみてください。イエス様がご両親に伝えたかったことの意味が分かったのは、生涯の終わりの時でした。家族の中で、子供の信号が読み取れずに、子供を救ってあげられないときもあります。あの時伝えたかったのは、こういうことではなかったのか、あとで気かつくことがあります。そういう意味では、少年イエスの悩みに、私たちが学ぶこともたくさんあるのではないでしょうか。

今子供たちが帰省したり、冬休みに入ったりして、子供とふれあう時間も多いと思います。ぜひこうしたチャンスに、家族の絆を考えてみてはいかがでしょうか。互いに、信頼の絆を確かめ合うことができるよう、恵みを願っていくことにいたしましょう。