主日の福音2000,12,17
待降節第三主日(Lk 3:10-18)
決まったことを忠実に
今日の福音で、洗礼者ヨハネが、荒れ野に教えを請いにやってきた群衆・徴税人・兵士に、一見して当たり前のような指示を与えています。厳しい荒れ野で生活をしているヨハネのことですから、よっぽど厳しいことを求められるに違いない。それをこなさないと、悔い改めも神への立ち返りもないのだろう、そう思っていたに違いありません。
ところが、ヨハネが与えた指示は、ごく普通の、当たり前のことでした。下着を二枚持っているものは、一枚も持たない者に分けてやれ、規定以上のものは取り立てるな、自分の給料で満足せよ、聞いた人はみな、拍子抜けし、呆気にとられたことでしょう。
けれども私は、このヨハネの指示に、隠れた意味があると思いました。下着を二枚重ねして着ると、確かに温かく過ごすことができます。私もこの前、ボートに乗せてもらって釣りに行きましたが、寒さ対策に、普段は格好悪くて絶対に着ない、長袖長ズボンを着ました。それはもう、防寒対策ばっちりです。
ただし、当時はこうやって二枚重ねできるのは、限られた人たちだけだったのです。どうかすると、多くの人は、重ね着どころか、中に着るものがなくて、寒さに震えていた人のほうが多かったのかも知れません。ここで、ヨハネが言った当たり前が、難しく聞こえるのです。暖かいのを、ぶるぶる震えている人のために犠牲する。勇気の要ることですよね。
今、日本全国で、一円でも多く税金を徴収できるようにと、あらゆる物に税金をかけることができないか、目を光らせています。ヨハネが言った、「規定以上のものは取り立てるな」という言葉は、当たり前ですが、いざ税金を集める立場の人にとっては、簡単には承伏できないのです。少しでも税収の多いほうがよいではないか。国民のために、県民のために、何が悪い?ということになります。
自分の給料で満足する。これも、当たり前すぎるほどですが、誰も現状には満足しないのではないでしょうか。どうかすると、高収入を求めないことは向上心のないことと結びつけられ、かすめ取るようにまでしても、みなが少しでも余計に給料を得ようとする。世の中ではむしろそちらが当たり前ですよと、反対に言いくるめられるかも知れません。
そうすると、洗礼者ヨハネの言っていることは、全部、当たり前ではないということになります。皆さんの耳には、どう聞こえているでしょうか。
私は、洗礼者ヨハネの言葉を繰り返し思い巡らしているうちに、ひょっと神学校時代のことを思い出しました。神学校で習い覚えた言葉だと思いますが、こんな言葉がありました。「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」。
それが何を教え込むために言われたものかは、今となっては思い出せませんが、おそらく「神学生の本分」ということについてこう言われたのではないかと思います。当時はこの言葉を小馬鹿にしていまして、からかい半分で言っていたものです。ですが、どうでしょう。当たり前すぎるこの言葉が、当たり前にできないのです。
決まった時間に、決まったことがあります。私のことで言えば、毎日決められたことがありますし、土日のミサのお説教という、一週間の中で決まっていることとか、あるいは月単位で決まっていることがあります。決まっている、当たり前のことですから、いくらぼやいてもやってきますし、いくら文句を言ってもなくなるものではありません。
それなのに、毎度毎度、はあきっつぁよとか、こがんとなくなればよかとにとか、当たり前のことにブーブー文句を言っている自分がいます。いかに神学校当時の神父様が、先を見据えていたかがよく分かります。今、「決まったことを忠実にできない」者が、司祭になってできるはずがないのです。「あーやかまっさよ」と思っていましたが、洗礼者ヨハネの言葉は、今も生きているのです。
今日、皆さんが持ち帰っていただきたい言葉を、もう一度繰り返します。「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」。これです。あったり前、もう分かっとる、そう思うかも知れませんが、お一人お一人の生活の中で、本当にその通りにしているか、忠実に行うことができるように、神様に助けを求めているか、振り返っていただきたいのです。
馬小屋の飾り付けを見ながら、私は先の言葉をかみしめておりました。毎年クリスマスの飾り付けをします。決まったことを、決まった通りに、忠実に果たしていく。その繰り返しです。けれども、同じことをしているようですが、材料を少しずつ継ぎ足す必要がありますし、手伝ってくださる人は毎年お願いしないと集まらないかも知れません。そしてこの当たり前が、子供たちにとっては毎年新鮮な喜びとなってくれるわけです。
当たり前にこなすことが、いかに大変で、大切なことか、本当に考えさせられました。一人ひとり、親として、子として、父として母として、夫として妻として、イエス様がおいでになるまでの一週間、特別な修行や荒行で準備するのではなく、「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」私はこれからも続けてまいります。イエス様、今年も、私たちの心においでください、そんな期待を持ちながら、この一週間を過ごしてまいりましょう。