主日の福音2000,12,10
待降節第二主日(Lk 3:1-6)
命の大切さになぞらえて考えてみる

今日の福音は、洗礼者ヨハネの登場と、イザヤの言葉の引用で、私たちにクリスマスの準備を促しています。これからの一週間、私たちの心の準備に当てていく何かをつかむことにいたしましょう。

この福音書を書いたルカは、最初のところで、二つの動きを紹介しています。一方は、政治の檜舞台に立ち、火花を散らして権力闘争をする様、もう一方では、荒れ野という、都会の喧噪とは無縁の場所で、神の言葉が伝えられていく様です。

権力と支配がすべてという場所に神の言葉は降ることなく、しかしそれと同じ時代に、神の言葉は確かにヨハネに降ったのです。神様を信じることに、どれほどの意味があるのだろうか?そう訝っているその時に、ある場所では神の言葉が降り、活動し始めるのです。

あるいはそれは、ほかのいろいろな疑いを持っている時代に、神の言葉が降ったと言ってもいいでしょう。たとえば、命は、大切だろうか、命の大切さをいったい誰が、どこで教えてくれるだろうか。そう疑っている現代に、神の言葉は降る、そう言い直しても構いません。

政治がよくなれば、日本は良くなる。それはそうかも知れませんが、政治家が世の中を動かして、たとえばゆとりのある教育を押し進めたとしても、命の大切さを、本当に教えることができるようになるかと言ったら、そうでもないのではないか、と思うのです。神の言葉が降って、神の言葉を受けた人が、忠実に伝えなければ、たとえば命の大切さも、本当の意味では伝わらないのです。

学校では、特定の神様を取り上げることはできません。ですから、「いのちは神様が与えてくださったものだから、大切なんだ」という、この一言を、言いたくても言えないのです。かけがえのない命とは言えても、神が造られたから大切なんだとは、言えないのです。

だからこそ、神はザカリアの子ヨハネに降り、伝えよと言われたことをそのまま伝えます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。(中略)人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と。政治の舞台も、教育の現場も、神の言葉を「神の言葉」として語れないのです。宗教だけが、神を信じる集いだけが、神の言葉を神の言葉として聞き、学び、伝えて回ることができるのです。そしてその、神の言葉がまもなく、人となっておいでになるのです。今私たちはそれを待ち、喜び迎えようとしているのです。そう思って、一日一日を過ごしていただきたいのです。

次に、洗礼者ヨハネの口を通して語られた、イザヤ預言者の言葉をもう少し考えてみましょう。引用された言葉に共通するのは、「○○される」という言い回しです。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに(「される」ということでしょうね)なり」。

これらは、洗礼者ヨハネがすべて用意してくださるという意味ではないと思います。洗礼者ヨハネの呼びかけを聞いて、あーそうだ、私たちは救い主をお迎えするために、あわただしい生活のなかに、落ち着いた場所を用意しないといけないんだ、そう感じた人たちが、呼びかけに答えて神に立ち直るとき、時間に追われ、落ち着きを失っている私たちにも、神様が宿る場所、平らな場所が与えられるわけです。

それは、呼びかけに答える私たちと、実際にその歩みを完成してくださる神様との、共同の働きです。神が、谷を埋め、山と丘を低くし、曲がった道をまっすぐにしてくださるのです。こうして、イエス様を迎える準備の時から、神様が私たちの準備を助け、完成してくださることにも気付いていただきたいのです。

神様が、人となっておいでくださる。権力争い、支配欲などでドロドロになっている世の中であっても、神は伝えたいことがたくさんあって、おいでくださる。命がなおざりにされ、物とか力で言うとおりにしようとする世の中に、神は命の大切さをみずから知らせにおいでになるのです。

国や政治、あるいは法律が、命の大切さを決めるのでしょうか。今宿ったこの命は守り育てるけれども、あの命は事情があって守ってあげられない。幸いに法律がそれを許している、そうやって、命の大切さが決まるのでしょうか。あの人はまだ生きていて良いが、この人はかわいそうだから、国の定めた条件に合えば、死んでよい、とでも言うのでしょうか。

神様だけが、命の尊さ、生きる意味について正しく教えてくださいます。身をもって教えるために、神がまもなく、人となっておいでくださるのです。ある国で安楽死の法律が決まっても、いのちに権限を持っておられるのは神です。その国にとっても、イエスの誕生は、まことの命の意味を知るために必要なのです。

 今年、イエス様の誕生をお迎えするために、神だけが知っておられ、教えてくださることを、私たちは必要としています。そういう思いでクリスマスを待つことにしましょう。教会にみなで集まってイエス様を待ち、生活にあっても、祈りの時間を持つことで、この社会にイエス様がおいでくださる必要があるということを証ししていきましょう。