主日の福音2000,12,03
待降節第一主日(Lk 21:25-28,34-36)
恐れおののく人に与えられるしるし

いよいよ待降節に入り、教会のカレンダーは新しい一年が始まります。「聖書と典礼」のパンフレットをお持ちの方は、待降節という文字に目をやってほしいと思います。ない方もどうぞ、頭の中で漢字を思い浮かべてみてください。

そこに書かれている漢字は、「待つ」「降りてくる」「季節」のそれぞれの文字です。もちろん、「イエス様の誕生を待つ季節」です。今の私にとって、イエス様の誕生を待つことに、どんな意味があるのでしょう。それを探っていきたいと思います。

福音書は、ルカによる福音のずいぶん後ろのほうが読まれています。一見すると、これからイエス様の誕生を待つという季節に、似つかわしくないと思われるかも知れませんが、注意して読むと、今読んだ聖書の箇所が私たちの準備に一役買ってくれていることに気付くと思います。まずは、この朗読に即して考え、それから、今日というこの日に当てはめていきましょう。

前半で、異常気象に人々がおびえ、気を失うと書かれているのですが、「あなたがた」と書かれている人たちには、「頭を上げなさい。解放の時が近づいているのだから」と励ましの言葉を語っています。その時には、天変地異と同時に、人の子が再び来るのを見るわけですが、人の子を信じない人々には恐れを感じさせるものの、信じる人には「解放の知らせ」「喜びのとき」となるのです。

人が人を信じられないとか、愛したのに憎まれるという、この不安定な世の中が終わりを告げるとき、その日は、人の子を信じない人にとっては恐れおののくときですが、人の子、救い主、イエス・キリストを信じる者にとっては「解放」すなわち「喜び祝う日」になるのです。

さてこの説明を、今日という私たちの生活の場に当てはめて考えてみましょう。待降節、イエス様の「誕生を待つ」という見方を重ねてみると、実はここで言われている「終わりの時」は、イエス様の誕生によって決定的になった。信じる人が「身を起こし」「頭を上げて」待つ「解放」は、もうイエス様が幼子としておいでになることで決まったも同然なのだ。だから、おおいに期待して待ちなさい、ということになります。

まもなく来るイエス・キリストは、これから果たして本当に私たちを救ってくれるかどうか、心配する必要はない。今度こそ信じていいメシアなのかどうか、最後まで見守る必要なんかなくて、ついに「解放」される。天変地異ほどの異変の中でも、喜びを失わない、そんな解放の時が、もうやって来たも同然なのだ。だから、喜びなさい。そう呼びかけているのです。

別に天変地異を、自然現象の中に見るまでもありません。天地がひっくり返るようなことが人間同士のあいだで繰り広げられています。私がすべてをなげうって人生を託した人が、実はわたしを食い物にしていた。社会的地位、信用、これまでの半生をなげうったのに、すべてを託したその人はわたしを捨てていってしまったとか、天地がひっくり返るような話です。そして、私は話を作り上げて言いましたが、現実にはその程度のことがそこかしこで起こっているのです。

こうした異変の中で、振り回され、恐れおののくとしても、「解放してくださる方」を信じるなら、信じることができるなら、救いがあるというものです。まもなくおいでくださる幼子、これが、信じる私たちへの保証、「身を起こし」「頭を上げて」待つよりどころなのです。

平穏無事に暮らす人々も多いかも知れません。けれども、今日生きられるか、明日は生きているかと、日々恐れおののいているすべての人に、解放の時がやってきます。幼子がおいでになって、それで完成ではないにしても、もう与えられたも同然なのです。この喜びに今日私たちも思いを馳せながら、私たち一人ひとりも、良き降誕祭を迎えることができるよう、準備を進めてまいりましょう。