主日の福音2000,11,26
王であるキリスト(年間最後の主日)(Jn 18:33b-37)
王であるキリストと、神の国の国民
今日は、年間の最後の日曜日、また、わたしたちの教会の記念である「王であるキリスト」をお祝いしています。朗読された箇所の中心点は、「イエス様は王様ですが、私たちはどうやってそれを意識しますか」ということになります。過ぎた一年を振り返りながら、私たちが態度でもイエス様を王として認めてきたか、この点も考えていくことにいたしましょう。
イエス様は、ピラトに尋問されています。ピラトは、政治的な王であれば、イエスを容赦なく裁こうと考えていますが、イエス様の答えからは、政治的な臭いは伝わってきません。いわゆる権力者という格好をしているわけでもないので、なぜこの人が裁かれているのか、不思議に思っています。
イエス様のほうは、最初から立場は一貫しています。イエス様はこの世の国の王ではなく、神の国の王なのです。「わたしの国は、この世には属していない。」イエス様が治め、導かれる国があります。そこにはイエス様に導かれる国民が集います。ですが、それらはすべて、この世で興ったり滅んだりする国とは違うのです。この世の国々を越えたところに、イエス様が治める「神の国」はあるのです。
イエス様は、この神の国を知らせるために、この世においでになりました。「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。」すでに来週からは、教会の暦は新しい一年に入ります。言ってみれば、教会の典礼暦は、神がご自分の国の到来を伝えるためにおいでになるできごと、イエス様の降誕から始まるのです。この典礼暦の中では、イエス様の宣教活動、受難と死、復活の出来事が織り込まれながら、今日の王であるキリストの日曜日で締めくくられるというサイクルになっています。
こうしてみると、一年の始まりの待降節・降誕節は、「神の国を知らせる決定的な出来事の始まり」であり、一年の終わりの今日、「王であるキリスト」の日曜日は、その、神の国がこの世にも充満し、すべての人が神の国の国民となることを願うことで終わるという、意外にすっきりした形になっていることが分かります。あとは、私たちが、その一年の暦の中で、神の国を示してくださったイエス様に、心から「はい」と答えてきたか、私たちの生活を、神の国に住む者として整えてきたか、そういうことが残されるわけです。
皆さんは見知らぬ土地で、思いがけずカトリック信者の方と出会って、親しみを覚えるというようなことはないでしょうか。旅行先とか、あるいは病院、学校、そういったところで、「あー、あなたも信者?あー、よかった」とホッとする体験はないでしょうか。わたしは、そういう話をちょいちょい聞きます。私たちは、見ず知らずの人でありながら、同じ信仰、同じ神を信じているということで、言葉では説明できないけれども、信者というだけでホッとするものなのです。
さらに、そうした不思議な縁を機会に、お互いが住んでいるところの教会の話とか、家族の話をすると、もっと親近感を持つことができると思います。あなたが持っているその感覚、そのセンスが、実は神の国の市民、神の民であることの確かな証なのです。そこには、北と南、先進国と途上国、政治信条、すべてのものを越えてつながる力があります。これが、神を王としていただいている私たちに与えられたすばらしさなのです。イエス様を王としていただいて、導きをいただいている恩典なのです。
私たちは、神に導かれて日々を過ごすという、この中心線を、きちんと据えてこの一年を過ごしてきたでしょうか。家族で助け合う、兄弟仲良くする、親戚や、近所同士で協力する、教会の一員として、教会運営に参加する。これらはすべて、「私もあなたも、神の民だから」この基本線に沿って続けられるものです。
心にゆとりがあるからできるとか、経済的にある程度ゆとりがあり、仕事も楽になったので、愛に満ちた生活が営めるのではないと思います。イエス様が、愛をもって私たちを治め、導いてくださっている。その喜びを形にしていこう。幼子となって現れ、多くのたとえで解き明かし、最後は命をかけて救ってくださった王が、今私たちに、あなたも、あなたも、神の国の国民として歩きなさい。イエスの愛を受けた人として生きなさいと招かれているのです。
神を王としていただいています。イエス様の一挙手一投足に関心を持ちましょう。イエス様が最後まで赦し続けたのなら、私たち国民も人を最後まで赦しましょう。イエス様が虐げられている人を守られたのですから、私たちも弱い立場の人々に目を向けましょう。こうして、一人ひとりがイエス様の望みを生きるなら、王であるキリストは誉れを受けるのです。
私たちはこの一年間、王の喜びとなる国民だったでしょうか。この一年を振り返りながら、続けてミサにあずかってまいりましょう。