主日の福音2000,11,19
年間第三十三主日(Mk 13:24-32)
人の子が戸口に近づいています

ここのところ、だいぶ寒くなってきました。お昼のニュースでは、札幌は平地でも雪が積もっておりました。季節は冬に向かっております。もう少しすると、教会の典礼暦も「待降節」、つまり、年が改まるわけです。そこで、キリストと共に歩んできた今年一年を振り返りながら、今日の福音を味わっていくことにいたしましょう。

本日の朗読箇所の最初と最後に、「その日、その時」ということについて語られています。特に最後などは「その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という謎めいた言葉があります。ここで言う「その日、その時」とは、「世の終わり」とか、「キリストの再臨」と言ったことを考えるとよいと思いますが、それがいつになるのかは、だれにも分からない、というのです。

このことだけですと、何も日曜日に取り上げて、私たちの生活の糧を探すほどのことではありません。イエス様自身「だれにも分からない」と仰るからには、いくらどんなに頭をひねっても、分からないわけです。「あ、そう」と簡単に片付けても構わないところなのですが、あいだにはさまれた「いちじくの木のたとえ」が、「その日、その時」と私たちの今の生活とをうまく結んでくれています。

「いちじくの木から教えを学びなさい」。私も食べたことはありますが、栽培まではしたことがないので、どのくらい皆さんに噛み砕いて紹介できるか分かりませんが、いちじくにとって「夏がやってくる」ということは、収穫の時を迎えたということみたいです。「枝が柔らかくなり、葉がのびて」という言い回しも、植物が、決められたとおりに時を刻んでいくことに目を向けさせます。うーん、どうでしょう。私たちにとっては、夏みかんを思い浮かべたらよいかも知れません。夏みかんの木にとって、夏がやってきたということは、それはミカンが採れるということでしょうから。

こうして、身近なものを引き合いに出して、「その日、その時」から学んで欲しいことを暗示しているわけです。つまり、「その日、その時」は、何か他人事のような縁遠い話ではなくて、確実に時を刻みながら、この私にも起こるということ、そして、いちじくにとって夏が収穫の時であるように、「その日、その時」は私たちにとっても収穫の時なのだ、ということです。

さてここで教会の暦との兼ね合いが出てくるのですが、私たちは教会の暦の終わり頃になると(イエス様の誕生をお待ちする「待降節」から、新しい暦が始まりますので、今の時期が教会の暦の終わりなのですが)、毎年このような「終末」にかかわる箇所を朗読するわけです。ですが、毎年読み味わい、考えるといっても、人間はどこかで気をぬいてしまい、「あー、またその季節が来たか」と、頭の中だけのこととして片付けてしまう危険もあります。

そこで、はたしてこの一年間で、私の中にどんな収穫があったのだろうか、改めて考えてみてはいかがでしょうか。結果だけがすべてではないとしても、何か、神様にご報告できる一つ二つのことが思い浮かぶでしょうか。

「その日、その時」は、何年何月かは、だれにも分かりません。それが世界中のすべての人にとって、同じ日にやってくるものなのか、あるいは私とあなたでは「その日、その時」が別の日にやってくるものなのか、それも分かりません。ですが、今年の二千年、大聖年を共に歩んだ私たちにとって、「いちじくの夏」「夏みかんの夏」はやって来たのでしょうか?

中田神父としては、この小教区にいなければ思いつかなかったであろう、「聖書通読リレー」が、何よりの収穫だったと考えています。この一生涯の中で、「あなたの収穫を報告しなさい」と言われたときに、私は、皆さんといっしょにあれだけの時間聖書に親しんだこと、これは神様に申し上げても良いのではないかなあ、と思っております。

「生涯に一回でも、すべての聖書に目を通したことがありますか?」と言われたときに、何人かは、「はい。確かにあります」と答えることでしょう。私も、その場に居合わせたことを幸せに思っています。たとえ、「その日、その時」が明日やって来て、そのお方、「人の子」が戸口に立ち、「収穫の時がやってきた。私が受け取るべき収穫はどれか」と尋ねられたら、私は「聖書通読リレー」のことを答えると思います。

ただし、これは今年二千年の話であって、また新たな一年を迎えたならば、きれいにそれらを横に置いて、しっかり前を見据えて歩かなければならないと思います。何かができたからと言って、その場にあぐらをかくことは、三十四歳の神父には許されないことです。こうして一年一年、終末についての朗読を聞きながら、さらなる実りを神様にお捧げする、この積み重ねを忘れないようにしたいものだと思います。

来週の日曜日、教会の暦では最後の日曜日に当たっていて、「王であるキリスト」をお祝いいたします。言うまでもないことですが、「太田尾教会」はこの「王であるキリスト」にささげられた教会です。これから残る二週間、「その日、その時」をいつかは迎える、そんな思いで、歩んできた道をゆっくり思い返しましょう。感謝し、ともに喜びつつ、二週間後にはまた新たな待降節を迎えることができるよう、ミサの中で祈ってまいりましょう。