主日の福音2000,11,12
年間第三十二主日(Mk 12:38-44)
やもめの姿に殉教者の生き様を見た

今週の、中学生のけいこ(教会学校)での話ですが、「大村領内での最初の殉教者」から始まって、二人の神父、ナワレト神父とエルナンド神父の勇敢な宣教についていっしょに学んでおりました。

「先週話したように、ペトロ神父と、マチヤード神父が、大村領内の最初の殉教者です。この二人の神父さんの殉教の話が人から人に伝わってきて、ナワレト神父とエルナンド神父の耳にも届きました。殉教者が出た話を聞いたとき、二人の神父様は、考え方を変えました。」

「厳しい迫害の時代には、宣教師たちは厳しい選択をしなければなりません。しぶしぶ、国外に脱出するか、隠れてひっそりと宣教を続けるかです。けれども、ナワレト神父とエルナンド神父は、そのどちらも選びませんでした。『もうすでに、二人の神父様が殉教なさった。私たちが恐れて隠れていてよいだろうか?私たちは決心した。街に出て、勇敢に宣教しよう。もしその間に捕まって、処刑されても、それでいいではないか!』こうして二人の神父様は立ち上がり、街の目立つところに現れて、恐れずにキリストの教えを伝えて回りました。この態度に多くのキリシタンが心を打たれ、これまで身分を悟られないようにしていたのを改め、堂々と神父様の話を集まって聞くようになったのです」

「こうした神父様たちの勇敢な行いは、信仰を捨ててしまっていた人々の心も揺り動かして、多良見町では300人もの人々が信仰を取り戻し、立ち返ってきました。死をも恐れない二人の神父様の模範が、当時の多くのキリシタンを救ったのです。彼らだけでなく、何と、ペトロ神父とマチヤード神父の処刑に立ち会った奉行までもが、信仰に導かれました」

「みんなもよく考えてみて。たとえば、本当に死ぬような目に遭って、そこから帰って来た人は、死さえも恐れないよね。こんな人は、死ぬのも怖くないんだから、すごく強いわけ。でしょ。だからね、こんな人が何かを始めると、ものすごく大きな力を出すことができるんだよ」

「ほかにも、病院で死を宣告されて、あなたは長く持って何ヶ月ですとか、そう言われたときに、ある人は絶望してしまうけど、中には、残りの時間を最高に幸せに生きようと気持ちを切り替えて、病院内のすべての患者、看護婦、お医者さんにまでも勇気を与える人もいるんだよ。だからね、人間にとっていちばん怖いものが怖くなくなると、反対にものすごく強くなるんだ」

ま、だいたいざっとこんな話をしたでしょうか。ちょうど、今日の聖書の後半を説明するのに、ぴったりだと思ったので紹介してみました。今日の福音書で登場するやもめは、ルカの紹介では「一人の貧しいやもめ」です。やもめと書かれている時点で、「夫を亡くした不運な人、社会的にも恵まれない弱者。貧困者・困窮者を表す象徴的存在」なのです。それに加えて「貧しい」とあえて書かれていますから、いかに弱い立場にあったかが分かります。

その、一人の貧しいやもめがイエス様に高く評価されました。イエス様がずばり指摘したように、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れた」のです。

この態度と、今週中学生にお話ししたナワレト神父、エルナンド神父の勇気ある行動が重なるのです。やもめは、自分の持っているものをすべて入れることで、自分が神に全幅の信頼を置いて生きていることを示しました。それは、ある意味で死をも恐れない態度です。生活費を全部入れてしまったら、明日どうやって食べていけばよいのでしょうか。

普通の労働者の128分の1と言われる額が、彼女の全財産だったというのですから、それを手放せば、本当ならあとは死しか道はないはずなのです。それでも、彼女はすべてを神にお任せしました。確かに彼女は、死を恐れていなかったのです。

この女性の姿は、私たちに本当の生きる道を示してくれます。この世のものを、それが何であれ、失うのが怖いと恐れて生きるなら、神様の前では評価されないのです。たとえ、大半のものを失っても、それでも前を向いて生きていく。希望を失わず、神を見つめて生きる。それが、骨のあるキリスト信者、筋金入りの信者ということではないでしょうか。

中学生に一生懸命話しながら、この子供たちは本当に、ナワレト神父様、エルナンド神父様から何かを感じ取っただろうか、ふとそんな気持ちにおそわれました。最後は、ナワレト神父様やエルナンド神父様の生き方を、目の前の私が見せてあげないと、伝わらないんだろうなあと、改めて身の引き締まる思いがしたのでした。