主日の福音2000,10,29
年間第三十一主日(Mk 10:46-52)
イエスは新約にふさわしい生き方を持ち込む
近頃は、聖書通読リレーに参加くださった方もずいぶんいらっしゃるので、「律法学者」と聞くと、「当時の宗教上の権威者で、威張ってはいるけれども、イエス様を陥れようとすることからも分かるように、本当は立派な人ではない」そのように考えて人物を想像する人も多いかと思います。
一般的に、そう考えて差し支えないのですが、今日登場している律法学者は、唯一その中の例外と言っていいでしょう、イエス様を好意的に見ています。彼が好意的であるというのは、「イエスが(これまでの律法学者の議論に)立派にお答えになったのを見て、尋ねた」(v.28参照)と書かれていることで分かります。ちなみに、これまでイエス様を罠に陥れようとふっかけてきた議論とは、「権威についての問答」「皇帝への税金」「復活についての問答」ということです。どれも、イエス様を陥れようとする悪意に満ち満ちていました。
心を開いて話を聞くとき、その人の中には大きな収穫があるものです。「聞いてから、話を受け入れるかどうかは考えよう」という心では、とてもではないですが、その人の中に収穫は期待できません。今日の律法学者は、イエス様に尋ねるその時から、謙虚にイエス様に教えを願う気持ちがあったので、素晴らしい収穫を得ることになりました。
イエス様は仰います。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」。「イスラエルよ聞け」とは、「すべての人は、よく耳を傾けなさい」と言うことです。この呼びかけも、「煩雑な律法にあって、暗闇のようになっている私の心に光を届けてもらいたい」と願っている彼にとっては、確かに光となったのです。
当時、イスラエルの人々に示されていた律法は、大小合わせて613あったと言われています。それは、重要さの度合いに差はあったものの、多くの人々を悩ませていました。そして、ある人は律法を恐れ、ある人は律法に縛られて生活していたのです。それは、律法の専門家である律法学者であっても同じことでした。
こうした人々のモヤモヤを、晴らしてくださる方はいないのか?もし、明快な答えをくださる方がいらっしゃるなら、その方こそ神からの使者、救い主ではなかろうか。そう考えるのは当然の流れです。イエス様は律法学者に、単純明快な答えを示しました。私たちもここで、イエス様こそ、人間が神の前にあって歩むべき生き方を示してくださる神、救い主であることを知るべきなのです。
イエス様の答えには、もう一つの大切な呼びかけが含まれていると思います。私たちは、掟を与えられたとしてもそれに怯えることなく、神様を心から愛するしるしとして、それを喜んで受け取るということです。
人と人とが出会うとして、たとえばそれは、男性と女性でも構いませんが、この人が好きだなあと思うようになると、その人の考えや行動を喜んで受け入れるようになるものですが、ちょっとしたしぐさや何気ないことばの端々ということまでなると、何もかも手放しで受け入れられるとも限りません。「いやー、こういう所は、自分は合わない」そう感じることもあるでしょうが、だからといってそのことばかりに気を取られていたら、深まるものも深まらないかも知れません。人間ですから、全然噛み合わないことがあっても何も不思議なことではありません。ただ、そこにいつまでも終始して、恐れ、怯えていると、もっと大きなものを失うわけです。
「私はこの人のこういう要求にどうしても応えられないけれども、もうダメなんじゃないだろうか」。心配は分からないでもないですが、それでも、その人を理解したい、もっとよく知って、その人を受け入れたいと思うなら、希望はあるんだと思います。
私は人の本を読んでいて、「ここは共感できるけれども、この点はどうかなあ」と思うことがよくあるわけですが、全体としてその人が好きだと思えば、やはりその人の本は読み続けるわけですよね。まったく食い違う見解であったとしても、私の中に、全体としてはこの人が好きだという気持ちに変わりがなければ、それでいいんじゃないかと思います。
イエス様は、律法学者の問いかけに、具体的に律法の第何条とは言いません。それよりも、あなたに、すべてにこえて神を愛する気持ちがあって、そこから、人を自分と同じように愛する生き方を守るならば、律法が少々悩ませても、いいじゃないか、そう仰っているのではないでしょうか。
それは、言い換えると、あの掟、この掟に抵触したかどうかで目くじらを立てる生き方はいわば旧約時代の生き方だから、もう横に置きましょう。新約時代の新しい生き方は、信じた人、信じた教えに心を開いて、少々ぶつかることや、間違えることもあろうけれど、私は神と人を愛してますと、胸を張って生きる。そんなことですよと仰っているのではないでしょうか。
ともすると、私たちも掟を細大漏らさず守ることで、自分の身を守ろうとします。私は守っている。だから私は正しいと、自分で自分を正しい人にしがちです。ですが、私たちを正しい人としてくださるのは神様です。身を守ることよりも、自分にできる形で、神と人に尽くす。そんな、新約時代の生き方を、今日私たちに期待しているのではないでしょうか。
旧約的な生き方から、新約的な生き方に移行していけるように、恵みを願っていきましょう。