主日の福音2000,10,22
年間第二十九主日(Mk 10:35-45)
あなたは、「プロの洗礼」を受けた
今日私がどんなにためになる話をしても、おそらく男性軍はほとんど耳に入らないだろうと思っております。王・長嶋の日本シリーズですから、とてもじゃないが、気が気ではないことでしょう。もしかすると、お母さん方のほうが、早く家に帰ってテレビの前に座り、ナベ・ヤカンを叩いて応援するのかも知れません。
それで私としても、あまり無駄な抵抗はすまいと思っております。普段にも増して説教の時間を長くしたりするつもりは毛頭ありませんので、ご安心ください。だいたい説教している本人が、そこそこで切り上げて、早く見に行かなければと思っているわけですから。
そこで、二点だけ、取り上げておきたいと思います。第一点は、イエス様がお使いになる「洗礼」という言葉の意味です。もう一点は、イエス様が仰る「人に仕える道」が、意外に険しいということについてです。
さて、「洗礼」という言葉ですが、イエス様は弟子のヤコブとヨハネに次のように仰います。「このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。ここで、せっかくですから、野球と結びつけて考えると、よく一軍初登板のピッチャーが、「プロの洗礼を受ける」なんてことが新聞に載ったりしますね。あの使い方は、今日の福音にぴったりだと思うんです。
いつだったかも、三菱重工から巨人に行ったピッチャーが、初登板でめった打ちにあっていましたが、まあ、たとえばホームランを3本打たれて、マウンドに沈んだとしましょう。これは、ちょうどイエス様が今日お使いになっている「洗礼」にぴったりです。と言うよりも、スポーツ記者が、聖書の言葉をたまたま正しくまねているわけです。
イエス様がヤコブとヨハネに示そうとした洗礼は、まさにいまのたとえにあるような洗礼でした。かつて、洗礼式と言えば、全身を水の中に沈めて、それによってこの人はいったん死んだ、ということを表していたのです。そのあとで、神がこの人を恵みによって引き上げてくださる。これが、洗礼のもともとの姿でした。水の中に沈む、マウンドに沈む、ちょうどおんなじ姿なので、言葉を借りているということですね。
ここから、私たちの一つめの収穫は、わたしは、いったんこの世に対して死に、神によって拾ってもらったのだ。だから、この世の地位・権力・名声・その他もろもろの地上的なものを、わたしは二の次にして、何よりも神に拾い上げてもらったことを感謝して生きるんだ、ということです。一度死んだ命だから、何も恐れない。ただ、拾ってもらった神に背を向けることだけを恐れる、こういう姿勢で生きているだろうか。これが、今週私たちが考えるべきひとつのテーマではないかと思います。
二つめの点は、イエス様は「偉くなりたいものは、皆に仕える者になりなさい」と仰るのですが、じつはこれが、意外と険しい道のりだ、ということなんです。
世の中には、ほんと頭の下がるような人たちがいるものです。ウソいつわりなく、献身的に奉仕してくださる方々がおられます。皆さんの身近な人で言えば、シスターたちですね。たまにはこう言っとかないと、面と向かって言うことはないですから、今日は声を大にして言いたいと思います。ほんと、感心です。頭が下がる思いがします。
他にも、いろんな場所で、献身的にお仕えしておられる方々がいらっしゃることでしょう。ですが、今日はちょっと時間の都合で割愛させていただきます。こうした献身的な奉仕に支えられて、教会の宣教活動は成り立っているわけです。
ただし、ここからが問題なのですが、やはりそうは言っても、人間はどこかで、何かのねぎらいの言葉や、感謝の気持ちを、百分の一か、千分の一か分かりませんが、やはり何か、期待してしまうんですね。これはもっともな話です。たまにアイスクリームを買って届けたり、ケーキを買ってきたり、それこそ魚を届けたりとですね、いろいろあるわけです。念のために言っておきますが、もしも私がどこかでねぎらっているとしたら、それは百分の一か、もしかしたら千分の一なのであります。
ところがですね、イエス様の最後の言葉は、その百分の一、千分の一にも、もう一度考えを及ぼさせるようなことを含んでいるんです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
イエス様でしたら、人類の救いのために命をささげたことに対して、百分の一、千分の一のねぎらい、感謝があってしかるべきだったのですが、実際には一万分の一も報われなかったのです。ここに隠されている意味は、こういうことです。つまり、「仕えるということは、一切報われなくても、尊いことに変わりはない」ということだと思います。
どうしても、どこかで私たちは感謝を期待しているんですね。たとえ千分の一でも、当てにしているんです。それはもしかしたら、「だれも見てくれていなくても、神様はちゃんと見ていて、報いてくださる」そう思って、頑張っているかも知れません。最後の最後、神様に頼るのは、これは一万分の一の期待なのでしょうが、今日イエス様が指し示した道は、その一万分の一の期待も持たないで、仕えなさいということではないのでしょうか。そうであって初めて、「偉くなれる『仕える道』」なのではないかと思うのです。
こうなると、意外に険しい道だということになります。私は、一切の報いを当てにしないで(それは、神様からの報いすら当てにしないでということですが)、仕えることができるだろうか。もちろん神様は報いてくださるのでしょうが、覚悟として、そういう覚悟で仕えるつもりがあるだろうか、このあたりを二つめのテーマとして、考えていただければと思います。
結局、王・長嶋の日本シリーズもそっちのけで、説教の時間は変わりませんでしたが、シリーズを酒の肴に、沈められた「洗礼」を受けた者として、仕える者になりなさいという呼びかけをどう自分なりに消化していくのか、今週一週間、頭をひねっていただければと思います。