主日の福音2000,10,15
年間第二十八主日(Mk 10:17-27)
イエスの招きを良く理解しよう

私は最近、車のブレーキを踏むとき、真っ先に後ろを見ることが多くなりました。もちろん、厳密には、前を見て危険を感じたのでブレーキを踏んだのでしょうが、同時に後ろも見ることが多いのです。

きっかけは、昔々の交通事故です。まだ神学生の時で、10年以上も前の話ですが、私のほうが加害者になって、追突事故を起こしたことがありました。前の車が、私に言わせると、急に何かを思いついてその場に止まったために、私は逃げようもなくてドスン、とぶつかってしまったのです。

その後の詳しいことは、ここでは関係ありませんので話しませんが、あとで時間がたってから考えたことは、突然止まれば、後ろの車はびっくりするよなあ、ということでした。そうして自分の運転を考えてみると、私がとっさにとった行動で、もしや後ろの車がそれに気が付いてなかったら、私は追突され、ケガをするわけです。ですから、あっ!と思ってブレーキを踏むような場合、後ろはいないか?と思って鏡を見てしまいます。

最近は、そればっかりでもありませんで、ちっとくらいのケガですみそうだったら、当たってくれんかなあと、とんでもないことも考えたりもします。じつは前の教会にいた1年間のうちに、左折する車にバイクごと巻き込まれて、右手を骨折したことがありました。

痛かったわけですが、思わぬお見舞いが出まして、どこかの夫婦じゃないですが、きちんと治る程度のケガなら、悪くもないなあなんて思った経験もあります。そうすると、複雑ですね。当たって欲しくないけど、少しだったら、当たってくれてもいいよ、なんて、これは危険ですから、皆さん考えない方がいいです。

まあ、冗談とも本気ともつかない話でしたが、要するに、自分は100パーセント悪くない、そんな状況があったとしても、だったら自分さえ悪くなければ、それでいいんですか?ということを考えたいわけです。前方の危険を避けるために、やむを得ず急ブレーキを踏んだ。これで、私は完全に正しいことをしたのですが、もしかしたら、私の急ブレーキに気付かずに、私の後ろの車が、私に飛び込んでくるかも知れない。あなたの判断は、周りにとっても良い判断だったでしょうか。そこまで考えてみたことがありますか?ということなんです。

今日の福音で、金持ちの青年が、イエス様にとても真剣な相談を持ち込みました。「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」という部分が、本人のせっぱ詰まっている様子をよく捉えています。彼は真剣に、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのか」(cf. v.17)知りたかったのです。

イエス様は、当時だれもが大切に考えていた「十戒」を思い起こさせます。どうでしょうか、イエス様はこの「十戒」を思い起こさせた時点で、これで青年の悩みは解決すると思っていたのでしょうか。私は、おそらく、この青年はそういうありきたりの答えには満足できないだろう、そうイエス様は読んでいたのではないかと思います。青年が、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えるのを、あらかじめ予見していたのではないでしょうか。

イエス様はそのあと、この金持ちの青年に、財産に執着しないことを勧めましたが、今日はその点は取り扱いませんので省略いたします。ここで取り上げたいのは、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と青年が答えたとき、いったいどんな思いだったろうか、ということです。

先の車の運転のことで言えば、急ブレーキだろうが何だろうが、自分の安全確保のために止まったこと自体は、完全に正しいわけです。自分には落ち度はないのですが、もしあなたにもう少し余裕があれば、自分さえ正しければいいんだという考えから、もう少し周りのことも考えてあげる人になれますよ、そういう呼びかけが次にはあるわけです。

金持ちの青年は、自分の正しさをイエス様に面と向かって主張しましたが、イエス様に言わせると、あなたは自分のことだけを守るので精一杯の身分ではないし、もう少し、人のためにも心を開くことはできませんか?あなただったら、すり切り一杯の正義ではなくて、財産を貧しい人に寛大に施して、溢れるほどの正義を果たすことができるんじゃないんですか?イエス様はそう呼びかけられたのです。

残念ながら、この金持ちの青年は立ち去ってしまいます。イエス様の招きに、答えるだけの心の広さは持ち合わせていませんでした。正義を守るのに、永遠の命を受け継ぐのに、この青年にはギリギリ足りるだけしか、心を開くことはできなかったのです。「押し入れ、ゆすり入れ、溢れるばかりに秤のますを良くして、正しく生きてみよう。そこまでの寛大さはなかったのです。

お釣りも使ってくださいとか、余ったらどうぞあなたのほうで良いように使ってくださいとか、こうしたことはすべての人に可能なわけではありません。余裕がないと言えば、すべての人がそんな余裕はないのです。

ですが、ある人にとっては、寛大に自分の持ち物を提供して、ほかの誰かの分までも協力できる人もいます。そうした人に、イエス様は「勧め」をお与えになるのです。ギリギリの正義・ギリギリの愛ではなくて、溢れるばかりの正義と愛を施しなさい。私は、このことをみんなを前にして、あなたに勧めます。これはあくまでも勧めですから、しないからと言って咎めるつもりではありません。事実イエス様も、金持ちの青年が去ったときに、「あの人は神の国にふさわしくなかった」そんなことを話した様子は見られません。

運転中に急ブレーキを踏むことは決してないとは言えません。ただし、「後ろに気をつけよ」とは、どこにも書いてありません。それができる人も、中にはいる、その程度でしょう。一人ひとり、イエス様の呼びかけを前にして、自分を振り返ることにいたしましょう。私は、ギリギリしかイエス様の呼びかけに答えようとしていないのではないか、溢れるばかりの寛大さで、イエス様の呼びかけに応える人に育てていただけるよう、ミサの中で祈ってまいりましょう。