主日の福音2000,10,08
年間第二十七主日(Mk 10:2-16
あらためて、結婚の尊さについて

今日の福音で、離縁状を書いて妻を去らせるというくだりがあるのですが、これはモーセが掟を書いた当時、男性があまりにも横暴で、ちょっと気に入らないことがあれば簡単に女性を去らせるという乱暴なことをしていたので、モーセが苦しい選択をした結果が、離縁状を書いて去らせるということでした。

女性は、モーセの時代非常に弱い立場にあったので、結婚していた女性がいったん突き放されると、それはもう生きるすべを完全に失うことを意味していました。さらに「離縁された女性」というレッテルがつきまとい、さらに立場を悪くしていました。そこでモーセは、「この女性は、すでに『自由な身分の女性』です。離縁された女性扱いしないでください」こうした配慮をさせて、当時の考えられる精一杯のお世話をして、女性を守ろうとしたのでした。

私は、モーセの書き残した掟の議論は、これくらいでじゅうぶんだと思います。なぜなら、今日の福音の中心は、あくまでも「結婚生活の尊さ」にあると思うからです。決して、「離縁は許されるかどうか」などと言う、とんでもない議論が話の中心テーマではありません。

結婚の尊さは、もちろんモーセの時代もイエス様の時代も、現代でも何ら変わりません。男性と女性が出会い、お互いに助け合い、励まし合いながら生きていく結婚生活は、素直に考えれば、神様が人をお作りになったその時から、与えられた素晴らしい生き方なのです。

現代の教会には、神様からの恵みをいただく手段として、七つの秘跡が与えられています。その中に結婚(婚姻)の秘跡もあるわけですが、あらためてここで決められたのではなくて、天地創造のその時から、婚姻の秘跡は神が人に与えてくださった恵みだったわけです。司祭職も、洗礼の秘跡も、イエス様がおいでになって定められたのですから、たかだか2千年の歴史に過ぎません。ですが、結婚生活は、神様が人をお造りになったその時から与えられていると考えれば、その大切さ、尊さは、格が違うと言ってもよいのではないでしょうか。

また、私は結婚生活の尊さを、子を産み育てることに特に見いだします。一組の男と女が、愛を育むことによって、何もなかったところにいのちを送り出します。いのちを送り出すこと、じつはこの働きは、神様だけがなし得る偉大な業なのです。

「神様の偉大な業」なんて、回りくどいことを言わなくてもいいんです。「神業」と言っていいんです。夫婦は、神様に招かれてともに助け合い励まし合い、「神業」に参加することができるのです。この素晴らしい生き方に、皆さん、皆さんが招かれているわけです。

結婚のすばらしさを前にして、逃げ道を作ろう、隙があれば壊してやろうというファリサイ派の議論は、まったくもって愚にもつかない議論と言えます。あらためて、私たちが恵みとしていただいている結婚の尊さについて、この一週間考えてみることにいたしましょう。