主日の福音2000,10,01
年間第二十六主日(Mk 9:38-43,45,47-48)
あなたは、あなたをつまずかせてはいけない

今日の福音に、今日の今日まで、ぜんぜん気付かずに読み過ごしてきた箇所があります。42節「・・・大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」このあと、以下の所です。

「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」(v.43)。以下同じ書き方で手の次は足、足の次は目というふうにイエス様は警告しておられます。

厳しい警告ということも目に付きますが、それ以上に、「あなたの手が、あなたの足が、『あなたを』つまずかせるなら・・・」と書いてある点に注意しましょう。「あなたの手が、人をつまずかせるなら」と言っているのではありません。自分の手足が、自分をつまずかせてはいけない、と仰っているのです。

おそらく、これまで私は、いいかげんに朗読していたために、この場所に行き当たっても気付かなかったのだろうと思います。「あなたの手足が、あなたをつまずかせるなら」とは、いったいどういうことなのでしょうか。どういう場面に、当てはめることができるのでしょうか。

あれこれ考えた挙げ句に、私はこのようなことに思い当たりました。「手」は、何か物をつかみます。何かに触れます。ですから、私が普段手に取る物、近寄って触れるものに、よく気をつけなさいということではないでしょうか。

たとえば、近くにある新聞、雑誌を手に取ったとします。やはり自分が興味のある頁をめくるわけですが、本当にそれは、あなたの役に立っているだろうか。手元に置いておこうと新聞や雑誌の記事をせっせと切り取ったりしているけれども、実はあなたの生活に、つまずきとなるものを近づけているのではないか。よく吟味してみなさい。そうイエス様は注意しているわけです。

そう言われてみると、あれもこれも、雑多な情報までも、手元に置こうと一生懸命になっていた気がします。今の状態では、確かに中田神父が神父として働きやすいとは言えないでしょう。そうしてみると、あの場所は、時間を費やしてまで出かけていく場所だろうか、そんなに何度も足しげく通う場所だろうか、かえって自分の生活を乱すことになっていないか、思い切って切ってもいいようなことがたくさんあるように思います。

他にも、夜遅くまで起きて、果たしてあなたが起きている間に見たたくさんのものが、本当にあなたの司祭生活を生き生きとさせているだろうか、4年に1回だからといって、オリンピックを本当に細大漏らさず見る必要があるのか?もっとあなたが目にするもの、読む本を吟味して良いのではないか、そうしたことを無制限に許しているから、あなたの手、足、目が、今やあなたにとってつまずきとなっているのではないか。だったら、それらを通して入ってくるものを、ばっさり切り落としなさい。こういう呼びかけではないかと思います。

なるほど、理由を付ければ、いくらでも自分のしていることを正しく見せることはできます。たくさんの人との会話に必要だとか、今の風潮を敏感に感じ取るために必要だとか、何とかかんとか、言い訳をすればきりがありません。ですが、それほどまで今の時代に気を配るのだったら、あなたが司祭としてもっと気を配らないといけないことは、他にあるんじゃないんですか、ということになるわけです。イエス様はわざわざ、「地獄に投げ込まれるよりは、命にあずかる方がよい」(v.45参照)と仰っているのです。

ここでいう命は、死んでからのちのことと結びつけられています。ですから、「限りある命」についてと言うよりも、「神から与えられる永遠の命」と考えるべきでしょう。情報であれ、財産や名誉であれ、今の時代に乗り遅れまいとあくせくするのではなく、たとえそれらを切り捨ててしまってでも、永遠の命にあずかることの方が大事なのです。当たり前のようですが、これが当たり前にできない。一人ひとり、胸に手を当てて考えてみたいと思います。

ときに、今手に入れているもの(触れているものでもよいですが)を捨てることは、手を切り落とすくらいに辛いことかも知れません。それでも、切り捨ててでも、永遠の命と引き替えにはできないのです。

あなたが足を向けようとしているその場所は、今日行かなければ二度と巡ってこないのかも知れません。それでも、あえて切り捨ててしまえば、これまたこの世の出来事に過ぎない。そこに行くことを諦めるのは、足を切り落とすことに等しいかも知れませんが、永遠の命を失うことに比べれば、損害は少ないのです。

あなたの生活パターン、あなたの行動パターンは、まだまだ見直してみる必要があるのではないでしょうか。その場では悲しい思いをするかも知れませんが、永遠の命を失わないために、片手、片足、片目になるつもりでばっさり切り捨てることのできるものがあるのではないでしょうか。

イエス・キリストのまことの弟子になるために、各自、自分の生活を見直してみたいものです。