主日の福音2000,09,24
年間第二十五主日(Mk 9:30-37)
すべての人に仕える−−イエスが歩み通される道

今日の福音の中で特に印象的なのは、イエス様といっしょに歩む弟子たちが、互いに「自分たちの中で誰がいちばん偉いだろうか」ということを一生懸命議論している点でしょう。イエス様と共に歩く姿は、単にイエス様にくっついているというだけではなく、イエス様の考え方、振る舞い、生き方そのものに共鳴して行動を共にするということをも含んでいます。

そういう弟子たちであるはずなのに、イエス様の側で夢中になって話していることは、世間的な地位・名声・権力といった、およそイエス様の弟子としてはふさわしくない内容でした。マルコ福音書は、福音書全体を通して、「イエス様のことを理解しない弟子たち」という点に注目していますが、ここでは、そうしたマルコの描き出そうとする弟子たちの姿が見事に描かれているとも言えます。

このような弟子たちを前にして、イエス様はどのように振る舞われたのでしょうか、ため息をつき、呆れ果て、叱り飛ばすのでしょうか。事実はその逆で、どんなに鈍い弟子たちであっても、それでも辛抱強く教え諭そうとなさいます。この点は、今の時代の私たちに対しても、同じ接し方をしてくださるのではないでしょうか。

イエス様は座って、弟子たちを周りに呼び寄せて話し始めます。「まあ座りなさい」という態度は、じっくり話して聞かせようとする姿勢の表れです。弟子たちはそうした細かい態度にどれくらい注意を向けたでしょうか。「これはいつもと違うぞ、イエス様は大切なことを教え諭そうとしておられる」そう感じたことにしておきましょう。

ここでイエス様が語られたのは、すべての人に仕える者になりなさいということでした。最初に語られた分は、私はご自分の姿を背後に置きながら話されたと考えたほうがわかりやすいと思います。イエス様は、神でありながら、私たちすべての人間を救うために、この世においでになり、文字通りいのちを削って、その身を死に渡して、人類を救ってくださいました。こうして、すべての人の後になり、すべての人に仕えたのです。

もちろん、私たちすべてが、イエス様の通りにすることはできません。そこでイエス様は、もっと身近な例として、子どもの手を取って、抱き上げて話を続けます。抱き上げると言うくらいですから、大きな子どもではなかったのでしょう。おそらく、保育園くらいの子どもと考えて良いのではないでしょうか。

保育園くらいの子どもの特徴はどんなものでしょうか。聞き分けが良くて、物静かでと、そんなことはまず考えないでしょう。悪い意味ではありませんが、自己中心的で、じっとしていない、また感情の移り変わりも大きいといったことではないかと思います。

こうした、子どもの姿を頭においた上で、「このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われるのです。子どもだけに限らず、自分のことばかりを主張する自己中心的な人、感情のままに話したり行動したりする人、このような人が、私たちの身の回りにはいないでしょうか。必ず、そうした人が一人や二人はいるものです。イエス様は、そんな場面こそ、あなたが「いちばん偉くなる絶好のチャンスだ」と話しておられるのです。

普段の生活の中では、なかなか、神様の思いに触れるというようなことは味わえないものですが、イエス様は具体例を引いて、自己中心的な人を受け入れ、許してあげるとか、心を開いて話を聞くことで、私たちは神の思いに触れるのだと教えてくださったのです。「このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。身の回りに必ず一つや二つはある出来事を通して、イエス様の思いに触れることができる。そしてそれはまた、イエスの弟子として、イエスの後をついていく道でもあるのです。

私たちが身近に出会う人、出来事を通して、神が目指す「偉大な道」に触れる一週間でありたいと思います。そのための恵みを、このミサの中で願っていくことにいたしましょう。