主日の福音2000,09,17
年間第二十四主日(Mk 8:27-35)
イエスは「わたしの後に従いたい者」に呼びかける

今日の福音書で登場する「フィリポ・カイサリア地方」は、幸いに、去年のイスラエル巡礼で訪れたことのある場所で、現地でも、イエス様が弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられた場所ですという説明をしていました。案内されたその場所は、イスラエル巡礼の中で最初に、「湿気のない暑さって、こういうものなのか」と思い知らされた場所でした。

ある意味で、たいへん厳しい環境ですから、弟子たちにも、曖昧な返事ではなくて、はっきりとイエス様を信じるという信仰表明を求めたのだと思いますが、ペトロはそれに、見事に応えたのでした。「あなたは、メシアです」。イエス様も、おおかたのユダヤ人の早とちりを恐れて、誰にも話さないようにと口止めをされたと言うことはあっても、その答えには十分満足されたのではないでしょうか。

ところが、ここから一歩踏み込もうとすると、イエス様と弟子たちとのあいだには、大きな隔たりがあることが分かりました。イエス様は、ご自分に用意されている「父に至る道」を歩こうとされるのですが、弟子たちの代表であるペトロは、イエス様をわきへお連れして、いさめ始めます。それはまるで、イエス様の前に立ちはだかって、イエス様を遮ろうとするかのようです。

ちょっと言うと、ペトロはイエス様に対して通せんぼをしているわけですが、これはどう見ても、イエス様に叱られるのは仕方のないことです。イエス様ははっきりと目的地があり、そこに向かってひたすら道を歩き通そうとするのですが、ペトロはそこへ行かせまいとするわけです。イエス様がたどり着こうとするのは、御父の望みで、それを理解しないペトロは、いたずらにイエス様を遮ろうとしています。単純に考えると、イエス様の道を遮ろうとするペトロが悪いのは明らかですが、どうしてそうなっていくのかは、考えておく必要があると思います。

ここで、イエス様が歩いている道は、御父の望みに従って完成しようとする「メシアとしての道のり」でした。すなわち、人々の救いのために、みずから「苦しみを受け、排斥されて殺され、三日の後に復活する」道のりです。ところが、弟子たちは当時のユダヤ人一般が抱いていた「政治的メシア」の考えから抜け出せずにいました。彼らにとって、イエス様に歩いてほしい「メシアとしての道」は、「異邦人による支配からイスラエルを解放する、現世的な勝利者」という姿だったのです。
是が非でも、この道を歩いてほしい、そんな思いから抜け出せないペトロは、イエス様が歩こうとする「父への道」から、イエス様をあえてわきへお連れして、いさめたのでした。

イエス様から叱られたことでも分かるように、ペトロは明らかに間違ったことをしていました。イエス様がみずから望んで歩こうとする道のりを阻もうとしたのですから。ところが、自分の周りを見直してみると、案外、わたしもイエス様に対して、ペトロと同じようなことをしでかしているのではないか、知らず知らずに、イエス様をいさめるようなことをしているのではないかと思うのです。

私の意見を、ぜったいに通したい。そのためだったら、大声を出してでも、誰かを黙らせてでも構わないと思っている。こんな性格の人はいないでしょうか。あるいは、自分の考えが受け入れられずに、そのことを根に持って、誰彼となく悪口を言いふらす、不満をまき散らす。そんなことはないでしょうか。こうした傾向を自分に感じるとき、形は違っていても、中身は、イエス様の前に立ちはだかり、イエス様を遮ろうとしているペトロと同じことをしているのです。

だれも、イエス様の歩みを遮ることは許されません。たとえ、イエス様の歩みが、私たちの理解をはるかに超えていても、まったく理解できなくても、イエス様が私たちの救いのために、御みずから選ばれた道のりは、いかなる人間にも口を挟むことはできないのです。分かりきったことのようですが、本当に分かっていると言えるでしょうか。

「本当に分かっている」。そうであれば、イエス様のみことばは私たちにとって心地よいことでしょう。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエス様の前に立ちはだかるのではなく、イエス様の歩みを本当に理解したければ、イエス様の後に従い、イエス様と同じく、それぞれの十字架を背負っていく必要があるのです。

一方では、「いつも人の後にくっついて、後ろから歩くのでは、何も新しいものは生まれない」という考えもあるでしょう。ですが、人がどのようにして救われるのか、本当に人間らしい生き方を全うするにはどうしたらよいかは、イエス様が誰よりも完全に知っていて、イエス様が常に最先端であり続けるのです。ですから、イエス様の後に従うことが、唯一、正しい道と言えるのです。

イエス様が十字架まで背負って、私たちの先頭に立たれたことは、完全にその意味を理解しつくすことはできないかも知れません。けれども、神は、ほかのどの形でもなく、この十字架の道を歩いて、救いを完成されたのです。そうなると、人間がしばしば陥りがちな「理解できるか、理解できないか」のレベルで考えるのではなく、全面的な信頼を寄せて、イエス様が歩いた道を最優先する信仰こそが、今日の私たちに求められるのではないでしょうか。

実は、この道は、たいへんに歩きづらく、険しい道です。それ故に、イエス様は十字架を背負って、私たちの先頭を歩いてくださいます。「なぜ?」という気持ちが起こるたびに、先頭を歩いてくださるイエス様を見つめながら、従っていく勇気をいただくことが出来るよう、ミサの中で祈ってまいりましょう。