主日の福音2000,09,10
年間第二十三主日(Mk 7:31-37)
たちまち耳が開き、舌のもつれが解けた

どんなに誘ってもえらかしても、「うん」とは言わなかったのに、何が起こったのか、今日の聖書の箇所のように、「たちまち耳が開き、舌のもつれが解けて」はっきり話せるようになった、まったく同じ奇跡を私は目にしました。

詳しい話はこうです。ある日曜日のことですが、その日は運悪く侍者をする子がいなくて、誰も来ないのかねと思っていたところ、お兄ちゃんが侍者をしている家族がやってきました。もちろんお兄ちゃんのほうには、「着替えて侍者をしなさい」と言ったわけですが、そこでふと思いつきまして、「お兄ちゃんが侍者をしているときだったら、弟もするかも知れない」と思いまして、その、弟君を呼びつけて、「今日は侍者をしなさい」と言ったわけです。

私は、そこまで抵抗されるとは思いませんで、まあ、よく分からないまでも、くっついて侍者の席に座ってくれるだろうと思っていたわけです。そしたらその子は顔を引きつらせて、絶対に頼まないでくださいと言わんばかりの顔をしましたので、いくら何でも、これではかわいそうだなあと思って、この日は無理をしませんでした。

この時点で、私はもうこの子に侍者の話をしても乗ってこないだろうと思い込みまして、2年生になってからも声をかけずにいたわけです。奇跡は起こるものですねぇ。私がいくら「難しいことはなかけん、やってみらんか」と言っても「イヤ」と頑として聞き入れなかったのに、何とこの前の教会学校の終わりにですね、自分で私のところに言いに来たんですよ。「あのね、神父様。ぼく、今度から侍者をしていいですか?」

いやー、これには天地がひっくり返るくらい驚きました。これが、あれだけ嫌がった子供だろうかと、自分を疑いましたね。

私なりに、何がきっかけで変わったのか、考えてみました。二つのことがはっきりしてきました。一つは、私の力じゃないと言うことです。もし、私の力だったら、ははーん、あの時あーしたから、侍者をしたいと言い出したんだなと思い当たる節があるはずです。それが、私には全くないわけです。全くありません。

そうなると、これはもう神様がこの子の心を開いたとしか、考えられないわけです。おそらく、もうここからは想像の域を出ませんが、この○君には、イエス様の「エッファタ」という声が聞こえたのだと思います。「エッファタ」って、どんな意味か知ってますか?これは「開け」という意味です。イエス様が、指を○君の両耳に差し入れ、唾をつけて○君の舌に触れて、天を仰いで深く息をつき、○君に「エッファタ」と言ったに違いない。そうとしか考えられない!

これはついでの話ですが、イエス様の奇跡のお膳立ては、もしかしたら私がしたかも知れない、ちょっとだけ威張ってもいいかなぁと思う点があります。それは、口酸っぱく夏休みのミサとラジオ体操に来るように言ってきて、その子は何とか、頑張って夏休みに来ました。私は、8月に入っての「主の変容」の祝日に、「美白」について話をしました。効果は絶大なので、夏休みちゅうミサとラジオ体操に来なさいと言っておいたわけですが、内面からの輝きは、この子にも確かに表れたという自負があります。

もう一つ言えば、「侍者をしていいですか」と言いに来た火曜日のミサの中で、私は偶然にも最後の一押しをするような話をしたわけですね。かいつまんで話すと、こういう内容でした。
「神様は、生涯の中で何回か、皆さん一人ひとりに、じかに声をかけるんだよ、手伝ってくれないかとか、これこれをしてみないかとかです。その声を感じたら、おとなになってもずっとその声を温めておいてください。きっと神様の呼びかけが、素晴らしい実を付けるときがやってくるよ」。

きっとですね、あの日あの時、あの火曜日に、イエス様は「○君、侍者をしたくないか」と声をかけたんだと思います。旧約聖書の話にある、神殿の祭司エリに仕えていた少年サムエルに神様が話しかけたように、あるいは、エッサイの7人の息子の、いちばん末っ子のダビデに神様が目を留められたように、もっと言いましょうか、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言ったエレミヤのように、神様が直接、話しかけたんだと思います。

ちょっと、オーバーですかねぇ。けれどもですよ、「あー何にも難しいことはないから、ちょっと着替えて座っときなさい」と私がやさーしくなだめすかしても、「うん」とは言わなかったのに、今になって手の裏を返したように変わるものでしょうか?これは、神様が直接働きかければ、耳は開け、舌のもつれは解け、はっきり聞こえるようになるという、明らかな例だと私は信じております。

今日は、神様が望んで、直接、具体的に働きかけると、誰も変えられないものでも変わりうるということを学びました。私たちが変えるのではありません。神様が驚くべき業を行います。私たちにできるのは、その環境を作って上げることではないでしょうか。

より親しく、教会の行事に触れさせる、ミサに参加させて、キリストの体にじかに触れる機会をたくさん持つ。きっと、イエス様はその人に具体的に働いて、変わらないと諦めていたものさえも、変えてくださることでしょう。たくさんの人が、この体験を積むことができるように、喜んでそのお手伝いをしましょう。そのための力を、今日のミサの中でいただくことにいたしましょう。