主日の福音2000,08,27
年間第二十一主日(Jn 6:60-69)
これは、「実にひどい話」か?「永遠の命の言葉」か?

イエス様の話を聞いた弟子たちの中で、分裂が生じました。弟子たちは、賛成反対まっぷたつに分かれます。同じ話を聞いているのに、「実にひどい」と受け取った弟子たちと、「永遠の命の言葉」として受け取った弟子たちに分かれたのです。

イエス様が話す言葉には、人を誤解させるような言い方や、曖昧なところはありませんから、本当であれば、みなが同じように信じることができたはずです。なのに、聞いた人たちの反応が分かれるということは、弟子たちがイエス様の言葉を聞くときの心の持ち方がいろいろさまざまであったということの明らかなしるしになります。

イエス様の弟子と言いながら、彼らは同じようにイエス様を思っていたわけではありませんでした。二つのグループがあったようです。イエス様の言葉を聞くことは聞くけれども、最後は私の持っている理解力で判断してしまおうとする人。そして、イエス様の話す言葉を何よりも大切にして、もし分からないとしても、そこで私の判断力に頼らず、イエス様ご自身の照らしを待つ、または分かるときが必ずやってくるから、それまでイエス様から離れずについて行こうとする人たちです。

私たちが頭で考えるなら、イエス様の言葉を人間がすべて解釈するのは無理なのだから、「ひどい話だ」と言った弟子たちが間違っている。そう誰もが思うのですが、実際は、なかなか、頭で考えるようには行動しないのです。

このことを考えるのに、私のこの夏いちばんの買い物を話の種にしてみようと思います。今年の夏、わたしはこっそりゴムボートを買いまして、ひそかに大釜海水浴場あたりでボート遊びをしておりました。すぐに感じたことは、陸からたかだか50メートルほどしか離れていないのに、海がものすごく広く感じる、ということです。広い広い海の真ん中にいる。それを肌で感じることができて、この開放感を求めて、夏の後半はほとんど釣りには行かずに、ボート遊びばかりしていました。

Aコープのそばを通り、海辺でボートをおろして大釜まで漕いでいくのですが、当然いろんな人からじろじろ見られます。最初はちょっと恥ずかしかったのですが、それも最初だけで、途中からは「ここは広いよー。来てごらんよ」という気分になりました。

ここで大切なことは、どんなに広い海のすばらしさを私が分かっていても、歩いている人に分かるように伝えるためには、私が海岸に近づいて、ゴムボートに乗せて、もとの場所に案内する。ここまでしてあげないと伝えることはできないし、呼びかけに答えて、ゴムボートに乗ってくれる人がいないと、おそらくいつまでたっても私が味わっている開放感は伝わらないだろう、ということです。

いくら「おーい、海は広いな、大きいな。ここにいるとそれがよく分かるぞー」と叫んでも、陸にいる人にはなかなか分かってもらえないのです。そして、分からないというときに、たいていの人は「自分も同じ体験を味わってみたいから、近寄って乗せてくれー」とは言わないのです。「陸にいるのに、分かるはずがないじゃないか。自分にはそんな誘いは意味がない」と、どうしても考えてしまうのです。

たかが50メートルですが、人間は歩いて海を渡り、ボートにたどり着くことはできません。そこにたどり着けば、海の広さ、大きな海の中で、自分がとても小さく感じることなど、いろんなすばらしい体験を持つことができるのですが、それは、必ずボートのほうが近寄ってきて、陸にいる誰かを乗せて、もう一度もとの場所に行かなければ、決して同じことを味わうことはできないのです。

イエス様の招きと、私の夏休みの遊びを比べるのは失礼かも知れません。けれども、無関係でもないと思います。イエス様が海の上、ボートに乗っているとしましょう。「おーい、ここはいいよー。おいでおいで」と言っています。だからと言って、私たち人間は、「はいはい」と言って海を歩いてイエス様のいるところには行けないのです。

イエス様が近づいてくださり、わたしたちをボートに乗せて、案内してくださらなければ、私たちがどんなに頭をひねってもイエス様の言っていることは分からないのです。イエス様の言っていること、イエス様のしていることは、本当はイエス様がその意味を教えてくださらなければ、私たち人間には理解できないというわけです。

だれも、「私はイエス様の話してくれることがすべて分かる。分からないときは、イエス様の話していることがおかしいのだ」とは言えないはずです。なのに、弟子たちの多くはそういう態度を取りました。イエス様のほうがおかしなことを話している。だから私たちには分からないのだと。

それこそおかしな話なのですが、自分の考えに固執する人は、同じ間違いを犯すのです。イエス様について行くべき私たちが、イエス様が歩いて行っているその方向は間違っている。だから私はついていかないと、肝心なところで間違いを犯してしまうのです。

十二人の弟子たちは、イエス様の言葉が分かるまで、自分の判断を差し控えることにしました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」。イエス様の言葉が理解できないとき、私はあなたの照らしを待ちます。イエス様の望みがはっきりしないとき、私の心に語ってくださるのを待ちます。あなたの答えを待ってはいられない、あなたのやり方では遅すぎると、早まったことはしません。これが、最後に残った12人の弟子たちの取った態度ではなかったでしょうか。

イエス様の導きと照らしは、私たちにも常に注がれています。カトリックの信仰者として、イエス様を信じ続けていくために、私が分かるものだけ受け入れるという態度ではなくて、今私の中で理解できなくても、これからも私が信じ続けることができるように照らしてくださいと願う心を育てていきましょう。そのための必要な助けを、ミサの中で願っていきましょう。