主日の福音2000,08,20
年間第二十主日(Jn 6:51-58)
私たちこそ、イエス様全体を食べている

今週の福音朗読は、簡単に言ってしまえば先週の続きを読んでいるということになるのですが、内容は先週よりもぐっと深まっています。イエス様の声によく耳を傾け、わたしたちの糧をいただくことにいたしましょう。

先週、イエス様は、「わたしは天から降って来たいのちのパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる」と仰いましたが、今週は、さらにその呼びかけが鋭く、具体的になっています。
たとえば53節「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」、さらにそれをつきつめた54節、56節などはその典型と言ってよいでしょう。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(v.54)

違いは明らかですが、いちおう形にしておくと、先週の朗読の部分ではイエス様は「このパンを食べる者は」と仰るのですが、今週の部分では「わたしの肉を食べ」「わたしの血を飲む」というところまで来ています。何かのもののたとえではなく、具体的に、口に入れてむしゃむしゃ食べるという意味です。

ここで使われている「食べる」という言葉ですが、厳密には動物が物を食べるのに使われるような意味合いがあるのだそうです。そうすると、本来はイエス様がお使いになる言葉としてはふさわしくないのですが、それでもあえてヨハネがイエス様の口にこの言葉をのぼらせるのは、観念としてではなく、実際に、口を使ってイエス様を食べて生きるということを強烈に印象づけようというねらいがあったのではないでしょうか。

その意味では、もしかすると、今の時代の私たちのほうが、幸いなのかも知れません。私たちは、ミサの中で、御聖体をいただいています。実際に食べています。イエス様の時代は、たとえイエス様が「わたしの肉を食べ」と仰ってはいても、聖体の秘跡はまだ与えられていませんでしたので、私たちと同じように「食べる」ということはできなかったはずです。その点では、私たちは文字通りに「食べて」生かされているのです。


ところで、当時の「肉と血」という表現は、人間全体ということを表していましたから、私たちもイエス様全体を「食べる」ということに心を向ける必要があります。

そうしてみると、今の私たちは、御聖体をいただくと同時に、イエス様のみ言葉に養ってもらうとき、十全な意味で「イエス様全体」を食べて生かされるということになるのではないでしょうか。

さいわいに、太田尾教会のほうでは、この8月20日から、「聖書通読リレー」が始まります。ぜひたくさんの人に参加していただいて、み言葉に養われて生きるという体験を積んでもらいたいと思っております。これは大げさでも何でもありませんが、この聖書通読リレーに参加していただけるなら、もう一生涯これほど聖書を読むことはなかろう、それくらい神のみ言葉に触れることができます。

じつはここだけの話なんですが、今年一年に限って言えば、私たちの小教区ほど、たくさんの人が聖書に触れ、味わった教会は、長崎教区の中にほかにはないのではないか、そう思っております。じつはこれが、中田神父の唯一の誇りなのです。

聖体と、み言葉により親しく近づくことで、「イエス様に養われて生きる」生活を具体的なものにいたしましょう。聖体拝領が、わたしの生活の底辺を支えるいしずえとなっているか、なっているとしたらはっきりそれを確信しているか、そうしたことを互いに確認し合いましょう。

神のみ言葉である聖書については、もしかしたら、聖書を家庭祭壇に奉って置いていても、御利益はあるのかも知れませんが、せっかく「通読リレー」を企画しているわけですから、もっとたくさん神の言葉に触れ、直接神の言葉に養われるまたとないチャンスだと思います。

一人でも多く、またなるべくたくさんの時間神の前に座って、み言葉のシャワーを浴びましょう。私だけでなく、家族のために、家族にとどまらず、私たち小教区が、イエス様全体を食べて生きる小教区となるために。

恵みを願ってまいりましょう。