主日の福音2000,08,13
年間第十九主日(Jn 6:41-51)
つぶやき合うのはやめなさい
金曜日に、小学生の球技大会が大村で行われたのですが、予選2試合は、圧倒的な強さで勝ち進みまして、「これはひょっとして」という期待を持たせる勢いでした。「神父様、海外旅行に行こう」などと大口を叩くわけですが、私もだんだん心配になってまいりました。もしかしたら、銀行の口座を解約しないといけないんじゃないか、どこかの旅行代理店で、格安の海外チケットを探さないと行けないんじゃないか、そこまで思わせる雰囲気だったんです。
決勝リーグは、第1試合はシードされておりましたが、いざ試合になると、予選では考えられないミスをしたり、体の動きが悪かったりで、一泡吹かせる間もなく、散ってしまいました。これは、一つは対戦相手をよく観察していなかったのが原因の一つではないかと思っております。自分たちとどこが違うのか、何かが違うので、勝ち残って行くわけですが、子供たちの敗戦の弁は、「あんなふうにできなかった、こんなふうにできなかった」というものでした。
負けて、何かを学ぶということも必要でしょう。この悔しさを、来年につなげて、来年は、また一から鍛え直して、強いチームになってほしいと思います。うちの子供たちなら、それができると期待しております。
さて福音は、イエス様がユダヤ人に答えて言われた「つぶやき合うのはやめなさい」という点に注意して、福音の呼びかけをつかみたいと思います。ユダヤ人はなぜつぶやき合うことになったのでしょうか、どうすれば、つぶやき合う状態から抜け出ることができるのでしょうか。
「つぶやく」とか「ぶつぶつ言う」姿は、どこの世界にも普通に見られることで、私たちも特別に例を引くまでもなく、身の回りで、あるいは自分自身が「つぶやいたり、ぶつぶつ言ったり」といった経験を持っているのではないかと思います。どうしてそうなるのか、そのあたりから考えてみましょう。
たいてい、相手の言っていることが承知できないとき、自分たちの期待に応えてくれないとき、私たちはつぶやくことになります。ぶつぶつ言いますが、面と向かって「私は(私たちは)あなたの言っていることに承知できない」とは言いません。本当に分かり合うためには、ある時はお互いの意見をぶつけ合って、またあるときは、自分の言い分をいったん横に置いて、じっくり相手の声に耳を傾ける必要があります。
イエス様と群衆の間では、こうしたやり取りがあったのでしょうか。残念ながら、ユダヤ人たちは、自分たちの言い分に凝り固まって、イエス様の言葉をそのまま受けとめようと努力しなかったようです。
たとえば、イエス様は、「わたしは天から降って来たパンである」と仰いますが、ユダヤ人はそれを早とちりして「どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」とつぶやいています。「わたしは、天の父から送られてきた食べ物です。私のことばと行いに倣うなら、あなたたちは本当に生きる者となりますよ」そういう呼びかけだったのに、ユダヤ人の耳には、「わたしは天の出身です。あなたたちとは生まれも育ちも違います」としか聞こえなかったのです。
これではつぶやくのも当然です。彼らが、「あなたたちとは生まれも育ちも違いますとは気に入らない」と、受け取った通りをイエス様にぶつけたら、また変わっていたかも知れません。彼らはつぶやくばかりで、本当の気持ちを知ろうとはしませんでした。私たちも胸に手を当てて考えると、ぶつぶつ言うときに限って、お互いにあとの残らないように心を開き合うということが足りなかったりするのではないでしょうか。
ユダヤ人のつぶやく中で、イエス様は心を開いて、招き続けます。「わたしは命のパンである」。イエス様は都合四回、「パンである」という呼びかけの言葉を使って、ユダヤ人の誤解を解こうとしています。「生まれとか、育ちのことを言っているのではないよ。私がどこで生まれ育ったかを気にするのではなくて、もっと心を開いて、私の中身、話していること、行っていることを見て聞いて、信じてほしい」と呼びかけるのです。ユダヤ人がどんなにイエス様を縦から切ったり横から切ったりしても、イエス様のことは分かりっこないのです。「パンである」と仰るからには、咬んで含んでみなければ、食べなければ、絶対に分からないのです。
私たちの生活でも、私心を捨てて穴の空く程良く観察して、初めて物事が見えるということがあります。写生をするとか、何度やっても同じ失敗を繰り返し、なぜ同じ失敗をするのか、初めて気が付いたとき、料理で、どうしても同じ味を出せなくて、苦労して苦労して、初めて同じ味を出せるようになったとか、どの場合も、やはり注意深い観察、思い込みを捨てて、初心に返って、目を大きく見開いて初めて、何かが見えてくるわけです。
私も、信仰の中でつぶやくことがあるのではないでしょうか。イエス様は心を開いて、「つぶやき合うのはやめなさい」と招いておられると思います。イエス様の教えに最大限心を開いて、耳を傾けることから出発しましょう。私心を取り去って、よく耳を澄ますとき、聞こえなかった何かを、聞き取れるようになるのではないでしょうか。