主日の福音2000,08,06
主の変容(8月6日)(Mk 9:2-10)
イエスに触れて、私たちも輝く白さになる

今日の福音、話を簡潔に切り出すと、どうやら「美白」の話をしないといけないかなあと思っております。前のほうに座っている小学生の皆さんで、「美白」に非常に興味のある子供たちは、今日の話はよく聞いておいてください。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(v.2-3)とあるわけですが。服が白くなったことについて、科学的なことは、洗剤のメーカーなり、台所用品のメーカーにまかせることにしますが、宗教学的には、なぜ白くなったか、教会の中で一考するだけの価値はあると思います。あくまでも、宗教の面から、ということです。

答えははっきりしていますが、イエス様の着ていた服が白さを増したのは、服がイエス様に直接触れていたからです。イエス様を洗剤扱いしないでください。イエス様の神としての働きが、「物」である服にまで影響を与えたのです。

ここで一つ目の結論が出てまいります。それは、私たちも、多少なりとも白くなりたいと願うのであれば、科学的なことは別として、宗教学的には、イエス様により親しく触れること、これが一番効果が上がるということではないでしょうか。つまり、イエス様に直接触れる、「聖体拝領」が、私たちが白さを増す、いちばんの近道だということです。

「うそー」という顔をしていますが、突飛な話に聞こえますか?私は、わりあい真剣に話しているつもりですが。もっとも、「私が」美白の話をすること自体、説得力がないとお考えになる方もいらっしゃるのかも知れませんが。

もともと、自然界の色はこまかく色番号で区別されていて、「白」と言えば色番号の何番と決まっております。それ以外は、いわゆる純粋な白ではないわけですが、「より白くなる」と言ったりするのは、色としての「白」に加えて、質感とか、透明感とか、そういったものが加わっての話だと思います。

そうすると、私たちがしばしばミサにあずかり、聖体を拝領するたびに、じつは私たちは、白さを増している、それは質感においても、透明感においてもそうだ、と言うことになります。皆さんは自分の白さに自身がないかも知れませんが、ここではっきり言っておきましょう。これまでずっと御聖体に養われてきた皆さんは、「輝く白さ」を手に入れているのです。どうぞ、自信を持ってください。

小学生の皆さん、この夏休み、ずっと早朝のミサとラジオ体操に来ています。夏休みの1ヶ月間、休まずにずっと来てください。だいたいコマーシャルの化粧品でも、1ヶ月くらいで効果を実感できるそうですから、この夏聖体拝領を続けた効果は、絶対に現れます。神父様が保証します。みんな、輝く姿になること間違いありません。良かったら、お母さんにも、このすばらしい効果を詳しく説明してあげて、お母さんも毎日ミサにおいでよ、と誘ってください。

次に、ここから生活全般に敷衍して考えてみたいのですが、私たちが、このイエス様に触れて白くなるという考え方を、もっと生活のすべての面に活かせないものでしょうか。直接、イエス様に触れる聖体拝領と同じとは言わなくても、同じ考え方を生活のすべてに当てはめることはできないものでしょうか。

これが、二つ目の結論になりますが、生活全般にわたって、私たちはイエス様によって磨きをかけられ、さらに輝きを増すことができるのです。私の思い、言葉、行いに、イエス様の物差しを当てはめていくことで、可能になってきます。

私の言動を振り返る時間を持って、イエス様だったら、あんな時どう話すのだろうか、あの人に、また自分の子供に、あんなふうに言ったけれども、もっとふさわしい声のかけ方はなかっただろうか。こうした振り返りの時間を持つことで、生活のすべてにわたって、イエス様に触れることが可能になってきます。

イエス様に触れること、それはすなわち、私たちがイエス様によって白くされる、輝きを増していただくことに他なりません。これこそ、「美白」の効果を持続させるこの上ないケアではないでしょうか。

今日は、「美白」という考え方に沿って、みことばを分かち合ってみました。おそらく、こんな話をした神父さんは、日本中いないだろうとは思いますが、私は、自分の心のままに分かち合いましたので、どうぞ皆さんで、共感を覚える方は実行していただきたいと思います。