主日の福音2000,07,30
年間第十七主日(Jn 6:1-15)
イエスは、ひとりでまた山に退かれた

今日の福音の中から、二つのことをつかんで帰ってください。一つは、イエス様はパンを増やす奇跡を通して、人々にメッセージを残そうとしていること、二つ目は、じつはそのメッセージは、悲しいかな、人々に理解してもらえないということです。

イエス様がパンを増やして人々の空腹を満たしてくださる、あのすばらしい奇跡は、そこに込められた意味合いの違いはあっても、四つの福音書ともすべて取り上げているものです。ですから、どの福音書であるかに関わらず、イエス様を知るために欠かせない出来事の一つだと言っていいでしょう。

ヨハネ福音書の中のパンの奇跡を読んでいて、今日は二つのことを取り上げようと考えました。最初に前置きしましたが、一つはイエス様の「メッセージを読みとる」ということです。

イエス様はパンの奇跡を通して、「わたしがこの奇跡であなたたちに言いたいことが分かるか?」と呼びかけておられると思います。まずその準備として、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねています。イエス様の問いは、ただ単に答えを出させるための「問題集」ではありません。問いを通して、「問う人」になってもらうための「問い」なのです。「イエス様は何を私に求めておられるのだろうか」と考える人になってほしいのです。

ですから、この最初の問いかけに、フィリポは「きっとこのおおぜいの人を養ってくださる何かを、イエス様は教えてくれるに違いない」と頭をまわせば、「正解」だったのですが、残念ながら、「問題集に答えよう」と頭を働かせたのでした。どこのパン屋だったら、一度にこれだけの数のパンを作れるだろうか?どれくらいの分量があれば、この人々に足りるだろうか。

フィリポ、またアンデレはここでは弟子たちの代表ですが、ようするにイエス様がメッセージを込めて尋ねた「第一問」を、読みとれませんでした。

次にイエス様は、「人々を座らせなさい」と指示します。「そこには草がたくさん生えていた」とあるのですが、これは旧約聖書の、「羊飼いが羊を青草の上に座らせ、養ってくださる」典型的なパターンなのですが、それに気付いたのは、ヨハネが一人だったのかも知れません。そしてヨハネですらも、福音書を書く段になって、あとで気付いたのかも知れません。

「十二の籠がいっぱいになった」。これまた、神の恵みは溢れるほどに注がれることを示すしるしです。こうした、「しるし」全体を見て、あー、この人は、私たちが心待ちにしていた救い主だ。そのことに気付く必要があったのですが、結果はどうだったのでしょうか。

イエス様は、メッセージを伝えようとしている。果たしてその結果は。人々は、「自分を王にするために連れて行こうとした」のです。結局、何にも分かっていなかったのです。人々の最後の態度と、イエス様の最後の振る舞いとの開きを見逃さないようにしましょう。人々はイエス様を自分たちの都合に合わせて連れて行こうとし、イエス様は「ひとりで、また山に退かれた」のです。イエス様の行くところに、誰もついては行きません。弟子たちも、ついては行けませんでした。

ここから、私たちの取るべき態度に移っていきたいのですが、イエス様はメッセージを残したいのですが、私たちは現象だけを探して回り、いつまでもイエス様の弟子になれないできたのではないでしょうか。メッセージを探そうとしなかったために、何度パンの奇跡を読み聞いても、そこから何も得られなかったのではないか。毎年、私の腹を満たしてくれるパンが増えないか、そんなことを期待していたのではないでしょうか。もしかしたら、今年こそはパンが増えるのではないか、そんなことを思って、今日までこの箇所を聞いてきたのではないでしょうか。

「わたしは、パンを増やす奇跡屋ではなくて、メッセージを残したいのです」イエス様は今も、このパンの奇跡を通してわたしたちに語りかけていると思います。私たちが、何かのメッセージを聞き取らなければ、読みとらなければ、今年もまた、イエス様を王にしようとした群衆の一人に終わってしまいます。今日の福音朗読を聖書の中の出来事に終わらせてしまいます。この聖書の箇所を、現代に生きるメッセージにするには、皆さん一人ひとりが、メッセージをくみ取って社会の中で生きる必要があるのです。

たとえば、あの数えることもできないような群衆に、食べ物を用意したイエス様が、わたしを見捨てるはずがない。私はどうかすると、神様は私を守ってくれないのではないだろうかと、疑いたくなるけれども、改めて、今日の福音を信じて、神様は決して私を見捨てたりはしない。そう思って、あらたな気持ちで生きていこう。たとえば、こんなメッセージをくみ取って、今週一週間を生きてくださるなら、あの福音書の箇所は、二千年前から飛び出して、現代に息づいていくのではないでしょうか。

最後に、イエス様のメッセージが、結局群衆には理解できなかったということも、真摯に受け止めることにしましょう。私は、イエス様のメッセージを理解したつもりかも知れません。でもそれでも、謙虚さを失わず、もし自分の意見であっても、間違いを指摘されるなら、耳を傾ける。それだけの心も同時に持ち続けることができるように、今日のミサの中で祈ってまいりましょう。