主日の福音2000,07,23
年間第十六主日(Mk 6:30-34)
みなさん、しっかり休みましょう

今日の昼から、私は子供みたいに夏休みを取らせていただきます。たいてい休みと言えば、何でも遅く始まる傾向にありますね。いつもは早起きだけど、今日は休みだからゆっくり起きようかとか、いつもは朝食の準備があるけど、今日は休みだから、どこかのお店が開いてから考えようかとか。

ところが、五島に帰りますと、毎度のことながら、私はいつもより早起きしなければなりません。今のように、教会の敷地の中に住まわせていただいていますと、ひょいと顔を出すと言った感じなのですが、家に帰りますと、そうですね、中戸から歩いてくるような感じになるでしょうか。当然5時45分の朝の祈りに間に合うために、5時頃には動き出すことになります。

自分のことばっかり棚に上げて話しては申し訳ないので、偉い子供たちの話もしておきます。今、太田尾・間瀬の子供たちは、黙想会を終えて、私からやかましく夏休みのミサと、ラジオ体操のことを言われておりまして、もうすでに間瀬の子供たちは、感心ですね、朝のミサに続けてきております。

そうしたことを考えると、よっぽど、夏休みのあいだの生活のほうが、早起きして休みになっていないのです。ぜいたくに寝坊して、遅くまで起きる夏休みを過ごしている子供たちもいるのかも知れませんが、私の呼びかけに答えてくれる子供たちにとっては、夏休みに早起きしている気持ちは、痛いほど分かっております。

さて、イエス様は最初の活動から帰ってきた弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」と仰います。ここで言う休みは、二通り考えて良いと思うのですが、一つは、体をゆっくり休めるということと、もうひとつは、「充電し、心も体もリフレッシュして、元気づけられる」ということもあります。イエス様が弟子たちに特に求めたのは、二つ目の意味での休み、つまり、本当の意味で喜びや慰めを受けることをして、元気をつける」ということでしょう。

じつは、イエス様が指示された「人里離れたところ」というのは、イエス様もよく利用された場所なのですが、それは、静かに祈りをする場所として紹介されています。弟子たちが宣教活動に出かけたときは、イエス様のお弟子さんということで、イエス様に劣らぬ期待をかけられ、イエス様並みのことを要求されたことでしょう。そうしてみると、心も体もヘトヘトに疲れ、本当は、体をゆっくり休めたいところなのですが、イエス様は、むしろそうした体の要求以上に、静かな場所での祈りを通して、心の充電をするように命じたのです。

この、イエス様が勧める休み方を、じつは、五島での休みは与えてくれていたんだなあと、最近思うようになりました。最初の頃は、「あーもう五時に起こされて、よっぽど教会におったほうがゆっくりできるばい」と思いましたし、まあ曲がりなりにも家の手伝いもすることになりますし、どうかすると教会の手伝いもすることになります。ぜんぜん休みじゃなかやかね、そう思うこともまれではありませんでしたが、よく考えると、そうしていろいろ疲れて帰ってきても、いざ現場の教会に戻ってみると、心身共にリフレッシュできて、あらたな活力が湧いてくるのを感じたものでした。

これは、すばらしい休息だと思います。見た目だけ体を伸ばすのが休みのすべてではありません。特に、小学生と、特に特別に、中学生・高校生にも念を押しますが、朝のミサとラジオ体操は、早起きしてはいても、心に恵みの充電をすることができます。夏休みばっちりチャージしておくと、二学期にエンジンはバリバリ回転することでしょう。夏休みに充電しておかないと、力が出ないばかりか、もしかしたら新学期始まってみたら、漏電していたということにならないとも限りません。

高校生のお兄ちゃん、お姉ちゃん。気合い入れて、朝のミサとラジオ体操に来てくれませんか?特に、小学生のラジオ体操指導をしてほしいです。34歳のオジサンの体操では、今のラジオ体操よりも、いすに座ってでもできる、「新ラジオ体操」のほうが似合っているんです。朝っぱちから、「あたたー」って言いながら体操するものだから、子供たちに笑われています。どうでしょう。ここで一肌脱いで、子供たちに貢献する高校生(高校生会)になってもらえないでしょうか。そうあってくれると、ほんに有り難いんですが。

まあそれは願望ということなんですが、今日の福音は、あらためて、皆さんの生活のメリハリということについて考える良い機会ではないかと思います。どうぞ、教会を社会生活での力を充電する場所に、利用してください。「利用する」とか「使う」とかいう言葉は、あまり感心しない言葉かも知れませんが、私としては、教会が提供する場を使って、リフレッシュを図ることは、おおいに結構なことだと思っています。そのために、「神父様、私たちとしては、こんなことを企画して、力を得たいんです。協力してください」といった旨の要望は、遠慮なく言ってほしいと思っています。

人間はどうしても疲れるんです。それは否定できないし、生活の中で人間は疲れるものだということを無視して仕事をすれば、体を壊すか、心が病むかしてしまうんです。だからこそ、宗教の場が必要なわけなんでしょ。もちろん、皆さんの要望に、十分に教会が答えていないという現実はありますが、強く願うなら、現実は変えられると思います。

金曜日に、すばらしい映画があっていました。「天使にラブソングを」というタイトルでしたが、修道院を舞台に、社会との関わり方、修道院の体質が変わっていく様、シスターたちの意識が生き生きと変わっていく様子が、私の目には新鮮に映りました。いちばん傑作だったのは、舞台となった修道院が、カルメル会の修道院だったということです。まああれだけ開放的な修道院に変わるというのは、映画の中だけの話ですが、それにしても、私は見ていて痛快でした。

映画の中では、シスターたちののびのびとした歌声に、今ばやりの若者たちが教会に足を運び、教会は若者でいっぱいになっていきます。教会に充足を求めたい、そう願うようになれば、そう思わせるような教会であれば、本当に教会は社会に貢献できるでしょうし、キリストの生き方考え方を伝える「集まり」に変わっていくことでしょう。

要は、皆さん一人ひとりが、教会を通して充足を得ているかどうかです。教会に行って、家庭に疲れて帰ってきては、元も子もありません。本当にリフレッシュされた顔で帰ってくるとき、その顔が立派な福音宣教の手段なのです。「さあ、あなた方だけで人里離れたところへ行って、しばらく休みなさい」。私の日曜日は、イエス様が考えるような休みになっているでしょうか。