主日の福音2000,07,16
年間第十五主日(Mk 6:7-13)
よろいかぶとを脱いで、出かけよう

「杖一本のほか何も持っていってはならない」。イエス様が弟子たちを遣わすときに、最初に言った言葉です。私は、今の今まで、この命令を勘違いしていたかも知れません。

「何も持っていってはならない」「パンも、袋も、また帯の中に金も持っていかないように」。こうした命令の中には、自分の持ち物や、これまでの経歴や、その他自分に付いてくるものすべてにまさって、完全にイエス様に自分を託すことを求める意味合いがあるのでしょう。ですが、もっと現実に即して考えるべきだったと気付きました。

つまり、「神の国はもうそこまでやって来ていて、告げ知らせに行くあなたたちには、一刻の猶予も許されない」ということです。この点に初めて思い至りました。そして、「幸か、不幸か」ということも、付け加えておきましょう。

次のような映像を見たことがあります。インドで、まだマザーテレサが生きていた頃、初誓願を立てた若いシスターたちを祝福しながら、それぞれの任地に送り出す光景でした。若いシスターたちは、いったん派遣されると、もう二度とマザーに会うことはないと知っていましたので、列車に乗り込んでも、いつまでもマザーテレサとの別れを惜しんでいました。

そんな若いシスターに、マザーは、「さあ行っておいで。あなたたちを貧しい人たちが待っているのだから」と言って、毅然として送り出します。その様子に、私は心を打たれました。若いシスター以上に、マザーテレサは別れがつらかったはずなのです。何も持たせず、別れを惜しむ暇さえ与えずに、わが子を送り続けたのです。

あの時の映像を、今日の福音に重ね合わせて考えるとき、弟子たちが遣わされていった様子は、まさしくマザーテレサがシスターたちを派遣するあの光景の先駆けだったのかなと思います。もしも、イエス様が派遣のために、いろんな準備を計画しておられたら、一週間もあれば、パンも、袋も、金も用意できたはずです。要するに、一週間の猶予も与えずに、即、派遣したのです。

このことは、弟子たちにとって、弟子たちの姿を自分たちの模範とするすべての人にとって、どのような意味合いがあるのでしょうか。弟子たちにとっては、福音の宣教は、入念に準備し、綿密な計画を立てることが問題なのではなく、「自分たちがイエス様から遣わされている」ということが大切だったのではないでしょうか。「イエスに遣わされている」という自覚と、それにふさわしい完全な委託の精神が、何よりも弟子たちにとって必要なことだったに違いありません。

弟子たちを模範とする、現代の宣教者にとってはどうでしょうか。ほとんどの活動に際して、よく準備をし、計画を立てて実行しているのではないでしょうか。もしかすると、そこでは、人間が期待した実りはあげることができても、神様が本当に期待する実りはあがっていないのかも知れません。

さらに致命的なのは、「杖も持たず、何も準備なしに派遣されていく」のは、神の国の告知が急を要する事柄だからであるのに、恥知らずにも、私たちには有り余る時間を与えられて、「何も準備しないで、何も持たない」という状況があるのではないか、ということです。

教会運営に対して、宣教のビジョンについて、優先課題について、あらゆることに関して、さんざん時間を使った挙げ句に、今の今までこれといった策を講じるに至っていない。いったい今まで、何度「即刻出かけて行くべき」時機をのがして、「何も持たずに出かけていかなかったか」反省すべき時が来ているのではないか。まずは自分の生活の中で、このようなことを考えております。

マザーテレサが実行していたことは、何も特別なことではありません。今そこに、わたしの手を必要な人がいるのです。助けを必要としている人と、いっしょにいてあげる。話を聞いてあげる。その人の重荷を少しでも軽くできるように、助けてくださる誰かを探しに行く。親方日の丸で、まあ何とかなるでしょうみたいな、悠長なことは言っておれないのです。

たくさん準備して、たくさん勉強して、たくさん道具をそろえて、それれをトラックに積んで、助けを必要としている人のところに行くのではありません。私たちは今すぐに、助けを必要としている人のところへ、何も持たずに行く。それが、弟子たちを派遣したイエス様の姿だったのではないでしょうか。

もしかしたら、もうすでにたくさんの荷物を抱えて、トラックに山積みしていて、狭い路地には入れなくなっているかも知れません。険しい山を登れなくなっているかも知れません。私たちの宣教の意識を、イエス様が今日の福音を通して解放してくださるように、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。