主日の福音2000,07,09
年間第十四主日(Mk 6:1-6)
つまずいたのは、あなたです

皆さん、一人暮らしの経験があれば、こんな覚えはないでしょうか。部屋で、座っているところから手の届くところに、何でもかんでも物を並べるといったことです。動くのが面倒なものだから、ついつい手の届くところに置いてしまいます。

整理整頓がいつも行き届いている方々は、今言ったような「誰か」を考えても構いません。私は、ずっと一人暮らしですから、どうしても自分の手の届くところに何でも並べてしまい、床にもいろんなものが堆く積まれてしまいます。

捜し物をするのも大変です。だいたいどのあたりにあるのかは分かっていても、積み上げた、どのあたりにあるのか、慎重に上から取り除いてというようなこともしょっちゅうです。お目当てのものが見つかっても、そのあとを片付けないものですから、さらに散らかった状態が広がることになります。

本棚に本を取りに行くときに、うっかり床の物に触れようものなら、積み上げたビルが崩れて、大変なことに・・・・ということも希ではありません。こういう時、「もー、何でこんな時に」といって、物に当たることになりますが、本当は、そのあたりに並べた私がよくないわけです。机の上、床などに乱雑に積み上げられた物は、好きでそんなところに積まれたわけでもなし、責任はありません。

今日の福音の中で、イエス様を取り巻く人々が、イエス様につまずきました。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」つまずいたというのですから、イエス様がここに集まった人々にとってつまずきの石になったのでしょうが、ここで問題になるのは、イエス様がつまずきの原因を作ったのでしょうか。それとも、人々の考え方、イエス様を受け止める姿勢が悪かったので、イエス様につまずいたのでしょうか。もちろん、答えは明らかです。

人々が、イエス様につまずくのは、イエス様を自分の物差しで考えようとしたことにありました。「なんだぁ偉そうなことを言って。どこかのお偉いさんでもあるまいし」。人々にとっては、いわゆる「偉そうにして、豪華な身なりをして、大仰に振る舞ってこそ」王であり得たのです。

自分の殻を捨てて、イエス様に大きく心を開くなら、イエス様はきっとすばらしい世界に人々を案内してくださったことでしょう。もっと違った世界を受け入れる用意ができていれば、より高いところに案内してもらえたはずです。ですが、人々はそれを拒みました。イエス様がせっかく高みに招こうとしておられるのに、人々はイエス様をこき下ろそうとしていたのです。

新しい世界を受け入れることで、さらに寛大になることで、あるいはもっと謙遜になることで、自分を成長させることができるのに、みすみすそのチャンスを逃していることが、私たちの生活にはまだまだたくさんあるのではないでしょうか。

あの人が近くにいるとムカムカする、あの人のやることなすことすべてが神経にさわる。そうやって不必要に怒りを燃やしていることはないでしょうか。もしかしたら、そういうときに私がつまずくのは、相手に原因があると言うよりも、私の狭い了見、くだらない優越感が妨げになっているのではないでしょうか。相手の振るまい、相手の物事の進め方、これらを受け入れようと努力すれば、簡単につまずきが取り除かれるということはないでしょうか。

往々にして、物事につまずくのは、自分の狭い物の見方が原因ということがあります。こんな態度しか、私は受け付けない。あんな言い方は許せない。相手をいつも自分に合うか合わないかで判断するので、つまずく。一つ、自分を変えることができれば、これらのつまずきは取り除かれるのに、と思います。

考えても見てください。他人が、自分の都合の良いように変わってくれるという淡い期待は、99%叶いっこありません。むしろ、自分がその人を受け止めてあげるだけの器に変わることのほうが、十分可能性があります。それでたくさんのつまずきが取り除かれるなら、安いとは思いませんか。

イエス様は当時の人々同様、私たちにも呼びかけておられます。「わたしは試金石です。あなたがわたしを受け入れようとして変わるなら、恵みに満たされます。あなたが相変わらず変わろうとしないなら、わたしにつまずくでしょう」と。

変わりましょう。99%変わらない周囲の中で、私が変わることで世界が変わってきます。福音の勧めに一つひとつ応えていける自分に変えていただけるよう、ミサの中で引き続き恵みを願いましょう。