主日の福音2000,07,02
年間第十三主日(Mk5:21-43)
今日は、もう最初から吠えますよ
過ぎた木曜日は、「聖ペトロ・聖パウロの祝日」でした。ペトロ・パウロの霊名をいただいた子供たちもいるだろうと思って、小学生男子に、「洗礼の名前がペトロの人」と尋ねました。霊名がペトロ・パウロの人を並べて、みんなに紹介したい。みんなからおめでとうと言ってもらおう。そういう思いでした。
すると子供たちは怖いもの知らずですね。こんなふうに言ってのけました。
「神父様、霊名って何ですか?」
「なんてー!よーし、覚えてろよ。今度の土日の説教は吠えるけんな。怖いぞー、神父様が吠えたら」
「ぼく、怖くないよ。『わんわん』、ほら、怖くないもん」
「それと違う!きっとお父さんお母さんはびくびくしとるはず」
「ぜんぜん怖くない」
「おーよしよし。楽しみしとけよ」
こんな感じで、教会学校の日のミサのお話は始まりました。
今になって考えると、怖くないと言った意味が分かりました。日曜日、ミサに来なければ、中田神父がいくら吠えても、怖くないのは当たり前です。私もそこまでは考えませんでした。敵前逃亡です。
どうでしょう、三分の一が「霊名って、なあに」、三分の一が初聖体の時にもらった祈祷書をやおら開いて、そこに書いてある名前を「ここに書いてあるから」と答え、残る三分の一が、自分の霊名をスラスラと言ってのけた、という状況でしょうか。今頃は、自分の霊名をさっと言ってのける子供は、優秀ということになるのでしょうか。
子供が自分の洗礼名を言えない。子供のせいでしょうか?シスターのせいですか?もう分かっているでしょ。お父さんお母さんのせいです。「あなたの霊名は、何々よ」「誰神父様から、洗礼を授けてもらったのよ」「代父・代母は誰々よ」機会あるごとに話して聞かせておれば、決して「霊名?しらん」なんてことを子供に言わせることは決してないでしょう。洗礼名を知っているかどうかは、いわば「自分が信者であることの最低限の証」です。霊名を知らないとすれば、信者であることの実感は、ほかにどこで感じるというのでしょうか。
きっと、自分の霊名を知らない子供が大きくなれば、将来はゆゆしき問題が起こるに違いありません。彼らの両親が、ある日お亡くなりになって、教会にやってきたとき、「お父さん・お母さんの霊名は?」「さあ、知りません」と言うことになるのではないでしょうか。皆さんそのときは、「霊名くらい、ちゃんと覚えときなさい」と、化けて出てきますか?
私の中には、ささやかな思い出があります。母親は、私の霊名の聖人(あとで、その聖人の名前が間違っていたことに私が気付きますが)のことを、よく話して聞かせてくれました。「ペトロは、十二人の弟子の一番弟子で、天国の鍵をあずけてもらった人だ」「ペトロは、イエス様にしかられたことがあったが、最後にはイエス様についていって、ローマで逆さ磔になって十字架にかかった」。もうこんな微笑ましい光景は、2000年の家庭には望むべくもないのでしょうか。古き良き思い出でしょうか。
皆さん、どうぞよく各人の霊名を学んで、それを子供たちに伝えてあげてください。皆さんのおかげで、今日このあと私の霊名のお祝い会を開いていただくわけですが、これは、私ひとりお祝いを受けると言うよりも、霊名のお祝いを互いに喜び合いましょう。まあ、代表として神父様のお祝いをみんなでしましょう、そう受け止めていただければと思います。
最後に、福音書に一言だけ触れておきますが、会堂長のヤイロは、イエス様を信じ、イエス様のがわに付くことで、二度の嘲笑を浴びることになります。「もうこれ以上、先生をわずらわせるには及びません」そう言われたのに、イエス様のがわに立つことをやめなかったヤイロは、最後にはイエス様が「子供は死んだのではない、眠っているのだ」と仰って周りの人から嘲笑を受けたにもかかわらず、それでもイエス様から離れませんでした。
霊名をしっかりと記憶に刻み、どんな場所でもそれを表明できる。こんな態度は、今日の会堂長ヤイロの態度に通じる、最初の一歩ではないかと思います。ヤイロの姿に倣い、自分は、イエス様にどこまでもついていくという新たな決意を、まずは洗礼名を心に刻むことで、始めてみましょう。
イエス様についていくことで、たとえ嘲笑されるようなことがあっても、それに怖じ気づいたり、動揺したりしない勇気をいただけるよう、今日のミサの中で祈ってまいりましょう。