主日の福音2000,06,18
三位一体の主日(Mt28:16-20)
生活の中に、身近なたとえを見つける

今日は、三位一体のお祝い日ですから、父と子と聖霊の神をたたえながら、私たちもこの神秘に生活を通してふれていく何かのきっかけをつかんでいきましょう。

三位一体の上を、直接とらえていくというのは非常に難しいことです。見て感じてというような理解の仕方は難しいかもしれませんが、私たちの日常生活の身近な体験を通して、ある程度近づくことはできるでしょう。

例えば、肉と魚と野菜。この3つをバランスよく組み合わせて食べて私たちは自分の体をつくっていきます。血と肉が作られていくわけですが、「ここからここまでは肉で作った血で、このあたりが魚からできた血で、そうするとここが野菜の血だ」。誰も、こんなことは考えないと思います。それぞれ3つの違った食べ物から、まったく同じひとつのものを形作っていくのです。

例えばこの様な食べるということに関して、私たちは身近に体験しているわけです。3つの姿を取りながら、まったく1つの結果を生み出す。神様の姿をある程度を描く助けになると思います。

別のたとえをひいてみましょう。信号機は、赤・青・黄色3つの色で成り立っていますが、この3つの色を通して1つの働きをしています。つまり、「車をスムーズに行き来させる」ということです。だれもが、青信号を見れば運転を続けるし、黄色を見ればブレーキに足をかけるでしょうし、信号が赤であれば停止するでしょう。赤信号見て、あわててアクセルを踏む人はそんなにいないだろうと思います。3つの色の信号を見て、誰もが1つの行動を取る。三位一体の神が、3つの姿でありながら、人を救うという1つのわざを行い続けておられる。なにか通じるところがあるのではないでしょうか。

今日、朗読された福音書から今週の糧についても何かを得たいと思いますが、イエス様は弟子たちに「全世界に行って、すべての人に福音を述べ伝えなさいと」と仰せられます。聞いている弟子たちに、3通りの態度を見ることができるかもしれません。ひれ伏して拝んだ弟子たちは、イエス様の言葉を喜んで受け入れたでしょう。またそういう弟子たちについていく弟子たちもきっといたでしょう。ただし、福音書には、疑う者もいたと書いてありますから、積極的でない弟子たちもいたわけです。

「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」。このイエス様の命令は、広く考えて「それぞれの分に応じて教会活動に勤しみさい」そう考えてもいいと思います。実は教会活動する私たち共同体も、ひとつの目標、すなわち福音を宣べ伝えるという目標に向かっていながら、そこには3つの姿があるように思います。積極的に動きだす方。その人たちについていく人々。そして、声をかけても、押しても引いても動かない人たち。こういった3通りの人々が共同体を形作る、現実にはこういう形で前に進んでいくのではないでしょうか。

三位一体の神を考えるうえで、私は先に2つのたとえを紹介しました。2つのたとえは、同じ程度で三位一体の神を身近に感じさせてくれるわけではありません。どちらがどうということはここでは言いませんが、やはりより近いたとえと、あまり参考にならない例えというのはあるのではないでしょうか。私たちの共同体が、宣教する共同体という1つの姿を描くのにより近い例えでありたいものだと思います。

共同体をいろんな姿で描いて構いません。信徒の皆さん、修道会の方々、司祭。先ほど言ったような、活発で積極的な方々、それに付いて行く方々、押しても引いても動かない人々。宣教するという1つの姿を社会の中で証ししていくにあたって、「この方々は確かにキリスト教の神を伝えている」。そうはっきりと感じてくれるようなより近いたとえ、より近い姿を私たちが生きていくことができるように、恵みいう願いましょう。

私たちの3つの姿が、福音を宣教するその本当の狙いに例えとしてあまり適切でないとしたら、私たちを見る人々は宣教する共同体として見てくれない筈です。例えがよくないからです。日々、より近い例えとして社会に宣教する共同体であることができるよう、よき例として根付くことができるように今日のミサの中で恵みを願っていきましょう。