主日の福音2000,06,11
聖霊降臨(Jn 15:26-27,16:12-15)
ほかの国々の言葉で話しだした
今日は聖霊降臨のお祝いです。イエス様の救いの業が完成して、いよいよ聖霊を通して弟子たちに引き継がれていきます。イエス様のみ業は、弟子たちによって世界中の言葉で、世界中に広められ、神の偉大な業が、すべての人にのべ伝えられていきます。
そこで私たちも、聖霊に満たされた弟子たちの姿から、実りある聖霊降臨の祝いを学び取ることにいたしましょう。聖霊が私たちを満たしてくださることを願いながら、黙想していくことにいたしましょう。
イエス様の復活から数えて五十日目、弟子たちに聖霊が降りました。「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだした」とあるのですが、これはいったいどういうことを指しているのでしょう。
直接には、弟子たちが外国語を語りだしたことを意味すると思います。外国語を習ったはずのない田舎者の弟子たちが、さまざまな国や地方の故郷の言葉を語っているのを耳にしました。一瞬にして、外国語をマスターする恵みをいただいた。少なくともわたしは、神様がなさることですから、弟子たちの実力に関係なく、そういうこともできないことではないと思います。
あるいは、別のことも考えておくと良いでしょう。私たちは、わりあい身近に、外国語ではないけれども、全然理解できない言葉を話す人に出会うことがあります(もしかしたら、まるっきり違う方言も、外国語に聞こえるかも知れません)。
たとえば、年輩の人にとって、若者の話す言葉は、まったく聞き取れないかも知れません。それは、ある意味で外国語を聞くよりも衝撃的です。考えること、そこから出る言葉、すべてが、年輩の方の持っているものとかけ離れているのです。わたしは、目上の人にも「○○ちゃん」と話している学生を見て、まったく理解できず、心を開くことができませんでした。それは、私にとってはまったく新しい話し方でした。
そうしてみると、外国語でなくても、考え方の根本が変えられると、そこから出てくる言葉はまったく新しい言葉になることが分かります。弟子たちの内面に起こった変化も、そのようなものではなかったでしょうか。神の霊、神の愛とも言われる聖霊が、弟子たちの心を満たし、考えること、話すことすべてが神の望みから生まれ出てくるようになったのです。
今弟子たちは、自分たちを辛抱強く教育してくださり、しばしば先生を悲しませたにもかかわらず見捨てず、最後には裏切ってしまったのに命を捧げてくださったあのイエス様が、弁護者である聖霊を通して、これから何を思い、何を語ったらよいか、導かれています。
聖霊に満たされた弟子たちは、かつての自分たちのように、自分勝手に考えたり話したりしません。イエス様がすべての人にとってすべてとなってくださったので、思いも望みも言葉も、すべて神の照らし・導きに任せ始めるのです。
あの時、イエス様は何を伝えたかったのだろうか。今、私たちに、何を望んでおられるのだろうか。また、これからの歩みを、どう舵取りしていけばよいのか。すべてに聖霊の照らしを願い始めた今、弟子たちはそれぞれの口で、「ほかの国の言葉」、すなわち「新しい言葉」を語り始めたのです。
こうしてみると、弟子たちが聖霊に満たされて、ほかの国の言葉を話しだしたということも、「あー、それは弟子たちに起こった奇跡で、自分たちには関係ない」と、最初から他人事として扱わず、イエス様があの時起こそうとしていた奇跡の意味を考えると、私たちにも関係する大切な奇跡であったことに思い至るでしょう。
弟子たちが「ほかの国の言葉を話しだした」のは、バイリンガルになるためではないのです。あるいは、英語弁論大会の催しでもないのです。大切なのは、「聖霊に満たされた、今日、この日から、自分勝手に考え、話すのではなく、イエス様は私に何を期待し、何を語らせたいのだろうか」「どのような日々の過ごし方を、イエス様は望んでおられるのだろうか」この、まったく新しい出発点に立ってものを考え、言葉を口にのせるようになった。この点が一番大切なのです。
ですから、私たちにも聖霊は今日豊かに働き、「新しいものの考え方、新しい話し方」を授けてくださいます。この聖霊に、これからも満たされて生きる決心をするならば、毎日、新しい言葉を語る人になるのです。
聖霊は、折々にはっきりとした形で降り注ぎます。洗礼式の時、堅信式の時、司祭になるとき、それぞれの場面で、新しい言葉を語り出すように賜物を満たしてくださるのです。
私たちも、弟子たちの受けた聖霊を、今日熱心に祈り求めましょう。自分中心の考え、話し方から脱却して、神様がわたしに本当に望んでいることを探しながら、語る言葉を唇にのせるものとなれるように、ミサの中で願いましょう。