主日の福音2000,06,04
主の昇天(Mk 16:15-20)
宣教するあなたに、しるしが伴う

4月24日にお祝いした復活祭を、6週にわたってお祝いしてまいりましたが、今週と来週は、その締めくくりにあたる「昇天」と「聖霊降臨」を続けてお祝いいたします。
まず、ことわっておかないといけませんが、今日、日本では、主の昇天も聖霊降臨も、日曜日にお祝いしています。聖書の記述(Acts 1:3;2:1)、また幼い頃学んだ教理の勉強でも、「四十日目に主は天に昇られ、五十日目に弟子たちに聖霊が降った」と習い覚えたことでしょう。

確かに、昔は日本でも「四十日目」また「五十日目」にお祝いし、その両日も「守るべき大祝日」だったのですが、現在の日本の事情を考えると、この両日を平日に持っていくと、守れなくなる心配があったので、日本の司教様たちは、日曜日に振り替えてお祝いすることにしたわけです。

それでも、古いと言っても、私が小学生の時には守るべき大祝日としてこの両日は覚えさせられた記憶があります。また、しばらくすると「日曜日以外で、守るべき大祝日は、クリスマスと神の母聖マリア」の二つになったのも、わりあいはっきり覚えています。そうすると、せいぜい私の年代、30代後半くらいからは昔のことを知っていると言うことになるでしょうか。言い換えると、私たちから10年後輩の司祭たちは、「昔は御昇天も聖霊降臨も、守るべき大祝日だった」と言うと、「へぇ!」と言われる時代が来るのでしょう。

さて、今日の御昇天のお祝いですが、イエス様が天に昇られるにあたって、弟子たちに福音宣教の使命を託されたことを中心に考えてみましょう。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。この場合イエス様は、「あとはよろしくね」と言って、天に昇られたと言うことなのでしょうか。

「あとはよろしくね」と言われると、私などは何だか食べるだけ食べて、勘定の支払いを自分たちに押しつけられたような感じを受けます。イエス様がもしそのようなつもりで、弟子たちにあとのことを言いつけて行かれたとしたら、弟子たちは途方に暮れたことでしょう。

もちろん、そういうことは考えられないわけで、飲食のたとえで言うと、イエス様はもうすでに弟子たちの分の支払いを済ませて、お帰りになったと言っても良いと思います。

つまり、「福音を宣伝なさい。信じる者は救われるし、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者にはしるしもある」そう言って、すでにこの先どうなるかについても、前もって示して下さり、実際その通りになっていきました。弟子たちは至る所で(全世界と言うことですね)福音を宣教しましたし、信じる人にはしるしも伴ったわけです。あなたたちの宣教活動がどのような結果になろうとも、すべての代償は私が払っておく。そう言って、父の元へ戻られたのです。

これは、弟子たちを勇気づけただろうと思います。自分たちのもとから、先生であり、救い主と仰いだお方が見えなくなると聞けば、誰でも不安になるはずです。ですが、イエス様は逆に、弟子たちの不安を取り除くために、できることはすべてしようというお考えなのです。

弟子たちは、どんどん出かけていくことになります。実際は、弟子たちも、人間に過ぎない者でしたが、主が彼らと共に働いて、その語る言葉を導いて下さったのでした。

振り返ってイエス様の昇天は、今の私たちにとっても力となってくださるのでしょうか。2000年の大聖年を、刷新の年と位置づけて、あらたな世紀に船出していく私たちにも、弟子たちの時と同じようにしるしが伴ってくれるのでしょうか。

私は、皆が一つになって宣教活動に心を向けるなら、しるしはいくらでも伴うと思います。小さなしるしを紹介しておきましょう。

もう説明する必要もないくらい、私の顔は日に日に焼けてきていますが、それは私の趣味がちょうどいちばんいい時期になりだしていて、忙しいからであります。別にこんなことを自慢しても何にもなりませんが、こうしているうちにも、なぜか、洗礼の準備を進める方がおられるし、結婚の準備を進める方もおられます。

世の中でしたら、いわゆる営業活動をして、一軒一軒訪ねて回って、足で稼ぐところでしょうが、神父が昼も夜も釣りに行って、それでいていくらかの結果が伴うということは、言葉が真実であることを証明しているのは、私ではなくて、イエス様ご自身だという紛れもない証拠ではないでしょうか。

もしこれだけの結果を、誠実な人柄と、足で歩いて稼ぐとなったら、本当に9時から初めて残業も含めて7時ぐらいまで努力しないと、決して獲得することはできないだろうと思います。ただし、私がすごくまじめだったとして、それで今以上の結果が見込めるという約束はどこにもありませんが。

「まあとにかく誘ってみようや」。それくらいの気持ちで声をかけに行って下さい。結果は、私たちの人柄で決まるのではなくて、イエス様が私たちの働きにしるしで裏付けを下さり、ちゃんと結果を出して下さいます。みんなが、どこかに出かけて、そこでイエスは私たちのために十字架に付けられて復活した、私はそれを信じている。だから、あなたにも教会の教え、教会の秘跡を勧めます。教会に行ってみませんかと、伝えに行くだけでよいのです。

イエス様は、すでに2000年前に、支払いを済ませて天に昇られたのです。「信じて洗礼を受ける者は救われる。信じる者には次のようなしるしが伴う」と。天に昇られたことを祝う今、支払いをすべて済ませて下さった今、私たちは何も恐れず、宣教活動に出かけることにいたしましょう。そのために必要な恵みを、ミサの中で祈っていきましょう。