主日の福音2000,05,28
復活節第六主日(Jn 15:9-17)
「どの友のために」命を捨てる?
今日の福音の中でイエス様が語られた言葉、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。この言葉は、聖書のこの箇所とまでは言えなくても、「あー、イエス様が語られた有名な言葉だ」と思い当たる人は多いだろうと思います。
そこで、あらためて、「友」とは誰のことなのか、考えてみることにいたしましょう。そして、私は、イエス様の言葉を受けて、どのような態度を取ったらよいのか、考えてみることにいたしましょう。
イエス様は、ただ何とはなしに「友のために命を捨てる」と仰ったのでしょうか。具体的なイメージもないままに「友」という言葉を使ったのでしょうか。あるいは、イエス様なりに「友」を思い描きながら、または、「友」を目の前にして語ったのでしょうか。
私は、おそらく後者のほうだろうと思います。イエス様には、具体的な「友」のイメージがあって、その友に語りかけるように言われたのだと思います。「友よ。私はあなたに言う。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はないんだよ」。
そこで、私たちも、イエス様が思い描いていたと思われる「友」の姿を、具体的にしていくことにいたしましょう。あわせて種類の友を描き出していきますが、その一つは、疑いもなく、目の前にいる弟子たちのことです。三年間、弟子たちとは歯に衣着せず、明け透けに話してきました。すべて心を開いて語ってきた弟子たちのために、イエス様は命を捨てます。そして、12人の弟子たち同様、イエス様の言葉に学び、彼の招きに忠実に答えようとするすべての人のためにも、命をかけて下さいます。
それから、イエス様が宣教活動に入られたとき、洗礼者ヨハネはイエス様のことを聞かれて、次のように答えました。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」(Jn 3:29)。友達の友達は皆友達ですから、洗礼者ヨハネ(またそれによって暗示されている旧約の義人たち)もイエス様の友であり、イエス様は彼のために命を捨てる、すなわち、先駆者の活動が無駄にならないために、命をかけて下さいます。
また、マリア様も「友」の一人に挙げることができます。とは言え、マリア様はイエス様のお母さんですから、簡単に「友」で片付けることはできませんが、確かに、イエス様は十字架上でマリア様のためにも命を捧げて下さいました。すべての人間にまさる、最高の友と言っても良いでしょう。そして私たちは、今日幸いにそのマリア様をたたえて、聖母月の締めくくりとして聖母行列を行いました。イエス様の最高最上の友でおられたマリア様をたたえることは、すなわちイエス様をたたえることになります。今日の聖母行列は、マリア様に連なって、私たちがイエス様の友として招かれるよすがとなったことでしょう。
最後に、イスカリオテのユダについても私は触れたいと思います。イエス様がはっきりと「友」という言葉を使って紹介した人物、それが一人はラザロ、もう一人はイスカリオテのユダなのです。イエス様を裏切ろうとして、手下どもを従えてきたユダに、イエス様が「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われたのは、あまりにも有名です。ユダをも含めてイエス様が「友」を思い描いていたとしたら、イエス様はすべての人、善人も悪人も、従う人も裏切る人も、「友」として語りかけ、彼らのために命を捨てて下さったと言うことにならないでしょうか。
イエス様は、これらの「友」すべてのために命を捨てて下さいました。私たちは、おそらく、「親しい友」とか、「心を許せる友」のためには、命がけになるかも知れません。ですが、イエス様が思い描いていた「友」を私たちが本当に知ったとしたら、何か条件を付けて、「この人は友で、この人は友ではない」と言うことができるのでしょうか。どれくらい親しい友は「友」で、あまり親しくない友は「友ではない」のでしょうか。
イエス様の仰る招きに、私たちは今日何かの答えを出す必要があります。「友のために命を捨てる。これ以上に大きな愛はない」。誰が友で、誰が友ではないなどと、選別する暇があったら、目の前にいるこの人のために、自分を捨てる覚悟を持ちたいものです。それこそが、イエス様の招きに素直に答える道ではないでしょうか。
どんな生活にある人でも、どんな心の状態にある人でも、イエス様は「友」として認めて下さり、命を捨てて下さいます。私たちも、そのイエス様の「友」となるため、目の前にいるこの人のために、自分を差し出す勇気を、今日のミサの中で祈っていくことにいたしましょう。