主日の福音2000,05,14
復活節第四主日(Jn 10:11-18)
まだわたしは、死ねないのです

わたしの郷里の教会に、初めて「助任神父様」という神父様が来られたのが、高校1年生のときだったでしょうか。その先輩神父様と、私が司祭になったとしにゆっくり話す機会がありまして、話を伺っていましたら、当時を振り返ってこんなことを仰っていました。

「いやー、あのころが懐かしいねぇ。ある日ねー、もう自分はこれで死んでもいいと思ったことがあったねぇ」。私は、「はーそうですか」と聞き入っていたのですが、正直、正直言って、「いやー、自分だったら、死ねないねぇ」と思ったものでした。

言っちゃ悪いですが、自分の郷里は田舎です。限られた人との出会い、限られた体験、そんな中で私は「死んでもいい」なんて、とてもそんな心境にはなれないと思ったわけです。長く司祭として生きていたら、「こんなにすばらしい信仰者もいるんだ」とか、「こんな体験をできるとは思わなかった」というような、生涯思い出に残る何かに出会うかも知れません。

また、司祭になって最初の何年かは、当然助任司祭としてスタートするわけですが、その先輩神父様も、いつかは主任神父様になるわけです。主任神父様になって、また違った喜びを味わうに違いない。そんなことを思うと、とてもじゃないですが、わたしだったら「死ねない」と思うのです。

今日、イエス様は次のような言葉を仰いました。「わたしは羊のために命を捨てる」。きっぱりと言い切ります。それは、「こういう場合には、羊のために命を捨てる」といった条件はまったくナシです。この毅然とした態度は、いったいどこから出てくるのでしょうか。

いろいろ考えると、わたしはイエス様の心とはほど遠いと思います。これはわたしの告白みたいなものです。羊は、羊飼いがたくさん飼っている「生き物」です。生き物を飼っていれば、その生き物が可愛くなって、情が移るということも、わたしはよく知っているつもりです。ただ、情が移るのと、命を捨てることとは別問題です。谷底に落ちて、それを助け上げたけれども、羊飼いは死んでしまった。そこまで自分を投げ出すには、よほどの覚悟がいるはずです。

やはりそれは、羊の命を、この上なく大切に思っているからでしょう。自分の命よりも大切に感じるからでしょう。そうでなければ、とてもじゃないですが、そんな心境にはなれないのです。

ところで、実際の生活の中では、わたしは何度か「もう死んでもいいです」「もう死んでも悔いはない」という言葉を、実際この耳で聞いているのです。心に引っかかっていたことから解かれ、すべて気持ちの整理ができたとき。心も体もヘトヘトになるくらい打ち込んで充実しているとき。わたしは、まだまだそんな心境にはなれませんが、もし、皆さんにそのような瞬間があるとしたら、またはかつて体験したことがあれば、それは、ぜひ大切にしてほしいと思います。人生の中で、誰かに伝えることのできるすばらしい体験だからです。

そしてできれば、そうした満ち足りた瞬間を、信仰と結びつけて、より豊かなものにできたら、もっとすばらしいと思います。それは、頭の中でできあがった理論よりも、はるかに役に立つ道具だからです。自分がああいった瞬間を味わえたのは、今振り返ると神様のおかげだった。そんな形で大きく膨らませることができるなら、ぜひそうしていただきたいと思います。

今日は、私たち羊のために、命を捨てるときっぱり約束して下さったキリストに感謝しながら、続く感謝の典礼に移っていくことにいたしましょう。