主日の福音2000,05,07
復活節第三主日(Lk24:35-48)
触ってよく見なさい

「百聞は一見に如かず」と言います。「見る」ということは、「聞く」ということよりも広がりがあって、「はっきり分かる」から、こう言うのでしょう。

さらに、「見る」ということにも程度の差があるわけで、「ただなんとなく見る」というのと「注意を傾けて、見る」というのとではわけが違います。

「見る」ということについて、ちょうど、今日の福音書の中でよく当てはまる箇所がありますので、学びを得ることにいたしましょう。復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちは、「亡霊を見ているのだと思った」(v.37)と書かれています。これに対してイエス様は、「わたしの手や足を見なさい」とか、「触ってよく見なさい」とか仰いました(v.39)。弟子たちが「亡霊を見ている」と思って眺めているのと、イエス様に促されて、あらためてしげしげと見るのとでは、明らかに程度の差があるわけです。

一方は、ただなんとなく見ているわけですが、イエス様が弟子たちに求めたのは、「よく見て理解する」ことでした。

確かに、よく見れば、百回聞くよりもよほどためになります。完全に理解し、把握できるでしょう。ですが、「分かっているのにそうしない」のも人間の姿です。「なるほどそうだ」「確かに仰るとおり」そこまで分かっていながら、実行しようとしないのです。

先日も、教会学校の折り、子供たちに質問していると、「これだけ言っても、やっぱりわかんないんだよなぁ」という体験をしました。今の子供たちの現実を見せられるのですが、これではいかんなぁとつくづく思いました。

以下は、思い出せる範囲で、子供たちと交わしたやりとりを再現してみたいと思います。

「みなさん、五月になりましたね。五月と言って、神父様がすぐに思い出してもらいたいことは何ですか?」
「連休」
「そうよね。連休よねって、違うでしょうが。神父様がみんなに連休の話を聞くはずがないでしょ!五月。さあ、何ですか?」
「えー?何かな。休み?」
「違う違う。神父様がわざわざこの教会学校で、五月と言ったらいちばん先に何を思い出しますかって、念と押しとるやかね」

もうここで、何を言ってもらいたいか、みなさんのほうは見当がついていると思いますが、まだまだ続きがあります。このあたりで、ようやく「聖母月」という声がかかりました。

「そう聖母月。聖母月と来たら、その次に思い出してほしいものは何?」
「マリア様」
「それを言うなら、ゼロ番目。聖母月のあとにマリア様じゃない。マリア様の次に聖母月。さあ、聖母月と来たら?」

 わたしもしびれを切らして、自分で話したほうがよっぽど楽ねと思うのですが、それでも、何とかみんなの中から答えを出してもらいたい一心で、質問を続けます。

「ロザリオ。そのとおり。じゃあ質問を先に進めます。聖母月に、ロザリオの祈りをマリア様にいっぱいするのは、誰ですか?」

 これに答えて、子供たちは「教会」とか「みんな」とか言い始めたのですが、はっきり分かってもらいたくて、私は意地悪な質問を浴びせます。

「教会とか、みんなとか言うけれども、もっとはっきり言ってください。教会って、誰と誰のことですか。みんなって、誰と誰と誰ですか」

 「みんな」と言うのはやさしいです。けれども、「私たちみんな」というのが、「みんな」という意味だと、子供たちにどうしても分かってもらう必要がありました。自分は棚に上げて、「聖母月には、みんなでマリア様にたくさんロザリオをささげる月だ」なんて、あまりにも虫が良すぎます。
 そして最後に、私の十八番、いつもの言葉が出てきます。

「はい。五月は聖母月です。聖母月は、私たちみんなで、マリア様にロザリオの祈りをいっぱいする月です。分かりました?分かった人。そう、分かったね。分かったら、自分の言ったとおりにしてください。自分で言ったとおり、マリア様にいっぱいロザリオのお祈りをささげてください。分かりましたか」。

 最後の詰めまで話すと、急にしーんとなるんです。分かった人と聞いても、さっきまで手を上げていた人が、手を上げないんです。「分からなかった人」と聞いても、返事がありません。どうなっているんでしょうか。

「はいみんな。じゃあ神父様が、聖母月にロザリオのお祈りを唱える簡単な方法を教えてあげます。これは簡単」「えー、夕方六時に、ロザリオを持って、教会に来てください。これだけです。簡単でしょ。おうちで時間を決めてロザリオをするより、よっぽど簡単。神父様が時間と場所を決めてあげます。みんなは、ロザリオを手に持って、教会に来さえすればよい。簡単な方法を教えたんだから、みんな教会に来て、ロザリオをマリア様におささげしましょう」。

みんな、狐に包まれたような顔をしておりました。

私としては、分かるように子供たちに噛み砕いて話したつもりです。子供たちも分かったんじゃないかと思います。分かったら、その通りに実行する。これが、中田神父が考えている人間らしい振る舞いなんです。

子供は、頭で理解したことを実行するのに、行動力が伴わないということもあり得るでしょう。そこで大人の出番です。子供が聖母月のことを頭で理解してきました。もし、それを行動に移す力が欠けているとしたら、補って助けてあげてください。

「神父様はあんなふうに言ってたでしょ。もう五時よ、五時半よ、六時前よ。教会に行って来なさい」。「ハーイ」と言って、きびすを返してどこかに遊びに行く子供は、いくらなんでもいないと思います。両親が、いっしょに付いてきてあげられないとしても、声かけることくらいはできるはずです。

「五月は聖母月」「聖母月にはマリア様にロザリオの祈りをする」「ロザリオの祈りをするのは、私たちみんな」。頭で分かっても、「百聞は一見に如かず」なんです。教会で集まっていっしょに祈るなら、子供たちは、頭の中だけで考えていたことを「はっきり見る」ことになります。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(v.38-39)。イエス様のこの言葉は、今月の私たちにとって、今週の私たちにとって、どんな意味ですか?よく考えることにいたしましょう。