主日の福音2000,04,30
復活節第二主日(Jn 20:19-31)
わたしもあなたがたを遣わす

復活のお祝い日の次の週は、決まってトマスが登場して、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とイエス様に諭されるのですが、天国におられる聖トマスも、毎度毎度同じ頃に同じ説教を聞かされるのも大変でしょうから、今日はちょっと違った箇所を取り上げたいと思います。

今日の朗読箇所の前半部分に、次のような言葉があります。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。弟子たちをこれからの宣教活動に派遣する言葉なんですが、何も弟子たちのためだけにこの言葉は向けられているのではないでしょうから、私たちなりに受け止めて、今週一週間の糧を得ることにいたしましょう。

「派遣」と聞くと、被災地に自衛隊を派遣するとか、わりあい私たちの身の回りで聞き慣れている言葉です。災害を思い浮かべなくとも、消防団は消防署(消防倉庫)の前で出発式をして出かけていきます。

その際、「まあ取り敢えず行って来てください」なんてデタラメな送り出しかたはしないだろうと思います。今日の見回りの重点項目はこれこれですとか、こういった任務に当たってくださいとか、ひととおりの指示、使命を受けて出発するわけです。「派遣された覚えがない」なんてぼうっとしている人は、とてもじゃありませんが役に立ちません。

使徒たちは、どのような使命を帯びて派遣されていったのでしょうか。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。この言葉に、使徒たちの派遣にあたっての重要な使命が込められていました。聖霊を受けて、「罪の赦し」という神様にしかできないことを委ねられて、宣教に出かけたわけです。

さてその使徒たちは、もうすでに出かけて、イエス様のもとに戻ってきました。ひとりも残っておりません。もし、派遣が、使徒たちだけの問題だとしたら、今日の福音の箇所は今日まで読み継がれる必要はなかったでしょう。今年の二千年にも、ヨハネ福音書のこの箇所が読まれたということは、今もイエス様は誰か派遣する人を必要としており、派遣にあたっての使命を託そうとしているということではないでしょうか。

「出発式」「派遣式」にあずかるということは、決まり切った形式ではあっても、それはそれで大事な意味があります。送り出すあるじは、どんな使命を派遣に際して託そうとしたのか、「派遣式」にあずかった人しか知り得ないからです。たとえ制服を着ていても、そのあたりにただなんとなくいるだけでは、派遣されているとは言い難いのです。

私が言いたいのは、「自分は日曜日にミサに行かなくても、社会の中でキリスト者としてそこそこ生きている」とか、「社会の中にも、キリスト者として生きるためのお手本はある」と、格好の良いことばかり言っていても、それは全然キリスト者らしくないということです。週に一度、みな共に集まり、聖体のキリスト、み言葉の中におられるキリストに直接使命を託され、この一週間キリストに派遣されて行くのでなければ、キリストの隊員とは言えないのではないでしょうか。

ほとんど務めの自覚もなく、ただなんとなくそこにいる人を、派遣された人とは言わないのです。キリストは、家庭のために、あなたの職場のために、あなた自身のために、何らかの使命を託して、派遣するのです。私たちは、派遣を受けて、派遣社員として、その自覚と誇りを持って、日々を生きるのではないでしょうか。

「神父さんはそう言うけど、あの人は教会に行ってないじゃないか」。もうそんな子供みたいなことは言わないことにしましょう。いつまでも大人げない大人は、どこの世にもいるのです。だったら、その人が大人になれるように、あなたが働きかけてください。それが、今日イエス様からあなたに託された使命と思って、出かけてみてください。その使命を成功させるだけでも、一生涯働くだけの価値があるのではないですか。

イエス様は派遣する人を捜し求めておられます。信徒総会に派遣したい、婦人会活動に派遣したい。使徒職活動に派遣したい。どうぞ、我こそはと思う人は、イエス様の前に手を挙げてください。「教会に行く人だけが信者ではないでしょう」と、お決まりの文句を言う人が、今も昔も絶えないのです。

はっきり言いますが、イエス様は皆が一堂に会するこの日曜日のミサの中で、直接みなさんに使命を与え、派遣しようとしておられます。み言葉と聖体の食卓を脇に置いて、どこかの街角で派遣するのではありません。日曜日のこの時間に、「神の家」以外のどこかで使命を授けるのではないのです。

今日も、私たちはイエス様から遣わされていきます。人間らしく生きるために、キリストが生きようとした隣人愛を私たちも実行するために。ただなんとなく来て帰るのではなく、イエス様のメッセージを確かにたずさえて生活へ送られていく。そのために必要な知恵と力を、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。