福音説教2000,04,21
聖金曜日「主の受難」(Jn 18:1-19:42)
おおいに十字架をたたえよう 
今日の聖金曜日の典礼について、みなさんのお手元のパンフレット11ページには、私もいままで気が付かなかったすばらしい点を説明してくれています。3行目からですが、ゆっくり読んでみたいと思います。

(主の受難の祭儀は)全体は「ことばの典礼」、「十字架の崇敬」、「交わりの儀」の三つの部分で構成されています。

この典礼は、単にキリストの受難と死を時間の経過に従って再現しようとするものではありません。救いの歴史におけるキリストの受難と死の意義を思い起こし、復活への希望のうちに十字架の勝利を賛美するものです。

そのため、キリストの受難の朗読を中心とすることばの典礼は、全教会と全人類のための荘厳な共同祈願で締めくくられ、私たちの救いのしるしである十字架の勝利をたたえる典礼が続きます。

ぜひあとでもう一度読んでほしいのですが、大切なのは、今日は悲しみの集会ではなくて、復活の命へ「過ぎ越していく」イエス様の勝利をたたえるために集まっているということです。

私たちは、あの時あの場面でイエス様がお亡くなりになったことを悲しむために集まったのではありません。イエス様はこの十字架の道を通って、週の初めの日に復活された。だから、希望を持って十字架を眺め、また讃えるために来ているのです。

当時の、あの時あの場面に立ち会った群衆、弟子たちなどは、このあとイエス様が復活することを前もって聞かされてはいましたが、まさかじっさいにそうなるとは夢にも思っていませんでしたので、イエス様のたどる十字架の道を、悲しみのうちについていくことしかできませんでした。希望はありませんでした。勝利の予感もなかったのです。

ですが、今日の私たちには静かな希望があります。悲しみの中にも、この出来事が復活の喜びに向かっていく一連の流れの中で起こっていることを知っています。キリストは人間の最大の不幸を過ぎ越されました。旧約聖書の中では、エジプトを脱出するという形で体験した「過ぎ越し」を、イエス様はご自分の体で証明してくださったのです。

これから引き続き、「十字架の崇敬」に移りますが、もうこの十字架は、人間を死に引き渡す道具ではなくなりました。イエス様が磔にされた今日この日から、復活の命へ「過ぎ越していく」道具となったのです。私たちは人を死に追いやる道具だから崇敬するのではなく、イエス様のおかげで、いのちのよみがえりへと導く道具となったことをたたえるのです。

敬虔に、十字架の前に、十字架に磔にされているイエス様の前に、跪くことにいたしましょう。