主日の福音2000,04,16
受難の主日(Mk 15:1-39)
あなたは何のためにそばに立ちますか
いよいよ今週から、イエス様の受難と復活の大舞台に入っていきます。今日は、すでにイエス様のご受難が朗読され、今日一日で一週間の山場をかいつまんで通ってまいりました。イエス様は群衆の歓呼の中をエルサレムに迎えられたのですが、同じ群衆が、一部の者に扇動されたとは言え、イエス様を十字架につけてしまいます。今日の出来事を自分のものとするために、私たちに何ができるのか、考えることにいたしましょう。
今日の長い長い朗読の中で、「昼の十二時になると・・」(32節)以降の箇所から、考えるヒントをもらうことにしましょう。この中で、イエス様の「そばにいた」人々が大事な役割を果たすことになります。
二通りの「そばにいた」人々が紹介されています。一方は、イエス様のそばに居合わせながら、イエス様を理解せず、信じようともしない人々。もう一方は、イエス様の最期を見て、自分の信仰を口にした百人隊長です。
どちらも、そばに居合わせました。同じ場面を見たのですが、心に残ったものはまったく違っていました。多くの人がイエス様の姿がいかにも惨めに映り、自分たちの欲望にまったく合わないとして捨ててしまいます。ですが百人隊長は、イエス様の最期を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。
ここには、同じようにそばに立っても、皆が同じように感じる訳ではないということをはっきり教えてくれます。もっと言うと、人間の世界には「近寄る人々」は二通りいるということかも知れません。
実際そうでしょう。その人のことを深く知りたいと思えば、どこまでもその人に近づいてみたいと思うものです。考え方や、行動もぎりぎりまで近づけて、その人の心を知ろうとするでしょう。
ですが、その人に敵対する人も、しばしば、いちばん近くまで寄ってくるのです。その人の計画を転覆させるため、その人の信頼を完全にダメにするため、ギリギリまで近づいて、その人に害を加えようとします。ナイフを持っていれば、その人に手が届くところまで行かなければ、刺すことはできないわけです。
イエス様は無防備です。すべての人が近づくことができるように、両手は十字架に縛られて脇は開いています。身を守るものもいっさい身につけず、丸腰です。槍で脇腹を突き刺す人も、自分の罪のためにいけにえになったことを悲しむ人も、皆が手の届くそば近くに立つことができるのです。
私は、どんな思いで近寄るのでしょうか。裏切る人は、ギリギリまで近づいてイエス様に接吻しました。信仰を言い表した人は、張り付けにされた姿をそば近くで見て信仰を表しました。
私たち一人ひとりの態度をはっきりさせて、この一週間にはいることにしましょう。どんな人も近くに寄せてくださるイエス様の愛をひしひしと感じながら、この一週間を過ごしてまいりましょう。