主日の福音2000,04,02
四旬節第四主日(Jn 3:14-21)
世を愛し、世を救う神
イエス様のご受難とご復活を迎えるための四旬節の期間も、四週目に入ってまいりました。ちょうど半ばにさしかかったところです。四旬節の後半に移っていくにあたって、イエス様が向かおうとしておられる「受難」「復活」について、ここでもう一度意識を新たにしていきたいと思います。
イエス様が生涯の最後の場面で、苦しみを味わってお亡くなりになるということ、これは避けて通れないこととは言え、本当にわたしたちを悩ませます。神の子であるイエス様が、苦しみを受けて最後を全うする。それも、災難とか事故とか、あるいは当然受ける罰ではなくて、正しい方が、被害者となってお亡くなりになる。本当に不思議です。
今日の朗読箇所から、何かをつかむことはできないでしょうか。イエス様は、神がこの世を愛しておられること、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるために御子を遣わされたことを知らせます。神様は、人間をどんなふうに思っておられるか、独り子でおられるイエス様だけが知っていることに触れたわけです。
ちなみに、「神は」「世を」どのように思っておられるのか、文字通りに調べてみると、福音書の中ではようやく三箇所、せいぜい四箇所です。それも、すべてヨハネ福音書に集中しています。そこから見えてくるのは、「神は、世を愛しておられる」「神は、世を裁くのではなく、世を救おうとしておられる」ということです。今日のイエス様の言葉にぴったり一致しました。
この、神様の思いと、イエス様の実際の運命というか、苦しみを受けられた最後の場面とが、どのように結びつくか。これは問題です。神様が世を愛しておられるからと言って、なぜ御子イエス様が苦しみを受けることになるのか。「たまたまそうなった」のでは、まったく説得力がありません。必ず結びつくというのでなければ、理解できないのです。
ひとつのたとえで考えてみたいのですが、日本でも、ここ一、二年のあいだに「移植」という医療が本格的に行われるようになってきました。「脳死」の判定を受けて、臓器を移植するという画期的な方法です。まずは自分の体の一部、あるいはほとんど全部を提供したいという本人の意思に敬服しますが、移植を待っている側からすると、本当に一日千秋の思いで毎日を過ごしているのではないかと思います。
法律上の問題で、幼い子供の場合は、日本ではなく、海外でそのチャンスを待つことになります。私はそんなニュースを見て思うのですが、実際にわが子がそのような重い病気を持っているなら、どんなことをしてでもわが子を助けたいと思うのではないでしょうか。
こういったぎりぎりの場面での思いが、実は神様の中にある。本当に、神様はわたしたち人間を愛しておられるから、どんなことをしてでも助けてあげたい。だから、この世を愛しておられることと、独り子イエス様が死に渡されることとは、「偶然」ではなく「必然」として結びつくのではないでしょうか。
「行きがかり上、独り子イエス様が死ななければならなくなった」のではないのです。もし、「死ななくても良かったんだけども」というのでは意味がないのです。イエス様の死をもってしか、人間を救うことができなかった。死に渡したくはないけれども、どんなことをしてでも世を救いたかったので、泣く泣く神は独り子を死に渡されたのです。
どうしても、どうあっても成し遂げたい。神様がこの世を愛しておられるのは、少し愛しているのではないのです。どうしても救いたいと思うほど、愛してくださったのです。重い病気を抱えて、今日生きられるか、明日はあるのかと心配するわが子に、どんなことでもしてあげたいと思う親と同じように、いやそれ以上に、神様はこの世を愛してくださったのではないでしょうか。
四旬節は、イエス様のご受難とご死去、ご復活に思いを馳せる季節です。イエス様の復活を喜び祝うために、まずもってその苦しみに目を向ける。二つは切り離すことができない。偶然苦しみを受けたのではない。何としてもこの世を救うために、苦しみを受けられたことをもう一度確認して、残る二十日間を感謝と信頼のうちに過ごすことにいたしましょう。