主日の福音2000,03,19
四旬節第二主日(Mk 9:2-10)
喉元過ぎれば熱さ忘れる 

今日、個人的に、「大島磯の香ロードレース」の一般成年男子10qの部に参加いたします。走るのが好きとはとても言えないのですが、まぁ、話題づくり、それくらいの思いで走るつもりです。

「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」という諺がありますが、私のマラソン癖は、全くこの諺の通りです。年明けはじめの駅伝に始まり、一月末の司祭団による福江マラソン、この三月のロードレースと、これまでいつも練習できつい思いをし、いざ走ってみても、「あー、もう走らんぞ。もうよか」あまりのきつさに、そういって音を上げているのですが、やっぱり大会が近づくと、性懲りもなく練習を開始し、大会当日は超ミニのパンツとランニングシャツで、顎はあがりっぱなし、はあはあゼエゼエ言いながら走っているわけです。

噂によると、今年は諫早高校の藤永選手が走るそうですね。私も張り切って、藤永選手のうしろをついて行こうと思います。あんまり近づいて付いていくと、最近は「ストーカー」と言われて、先導者のお巡りさんに逮捕されかねませんので、遠慮深く、はるか後方をついて行くつもりです。

今年走っても、昨年のタイムに追いつかないのは分かり切っているんです。どう考えても昨年の47分には追いつけるはずがない。ついこの前の金曜日にもコースを試走して、51分かかっているのですから、走れば痛い思いをするのは目に見えています。どうして、それでも走るの?と言われると、やっぱり、「喉元を過ぎれば、熱さを忘れる」からなんでしょうね。

みなさんは、そういう体験を身近に持っていないでしょうか。痛い思いをして、「もう二度としないぞ」そう思っているんですが、しばらくしてそのときの思いも忘れる頃になると、「もう一回だけ」なんて気を起こして、同じことを繰り返す。そういったことです。まあ要するに、パチンコのことを言っているんですがね。

じつは、今日の福音も、この「喉元過ぎれば」というのを当てはめて考えてみると、結構うまくいく箇所なんです。

ペトロと数人の弟子たちは、山の上でイエス様の光り輝く姿を目にしました。あーこれこそ、イエス様の本来の姿だ。これを麓にいる群衆に見せれば、どんな人でもイエス様を信じてくれるに違いない。そう思って、仮小屋を建てることを申し出たのでしょう。

ところが、イエス様の光り輝く姿は、ほんのわずかの時間見ることができただけでした。一緒にいたモーセとエリヤ、旧約聖書の有名な二人の人物、もっと言えば、旧約聖書を意味する二人の人物にも初めて出会いましたが、いつの間にかその二人もいなくなっています。あとに残されたのは、「これは私の愛する子。これに聞け」という言葉だけです。

ペトロが、単に思いつきでこんなことを言っていないのなら、たとえお姿が元に戻ったとしても、仮小屋を建てて、この人は光り輝く姿になったと、一生懸命群衆を集めて話すこともできたはずです。ですが、山を下りる頃になると、もう仮小屋の話はどこへ行ってしまったのか、影を潜めています。

ペトロにとって、光り輝く姿に「喉元が熱くなり」、熱いうちは熱心に仮小屋のことを考え、人々に知らせようと意気込んだ訳ですが、それも熱が冷めてくると、あれだけ燃えていたのが嘘のようになったのです。

問題は、この「熱さを忘れてから」「喉元を過ぎてから」、これが問題なんです。雲の中から聞こえた声は、「これに聞け」という言葉でした。光り輝く姿であろうが、元の姿に戻っていようが、イエスに聞き従いなさい。喉元の熱さを感じているときも、喉元を過ぎて熱さを忘れても、どちらにしてもイエスに全面的について行きなさい。こういう呼びかけなのではないでしょうか。

私たちにも同じことを求めておられるのだと思います。私たちもときおり、喉元を過ぎてしまうと、あれだけ熱心だったのに、こんなになるのかなぁと思うことがあるのではないでしょうか。生活の中での折々の祈り、日曜日のミサ参加、種々の使徒職活動、ぱっと熱が上がって、あとには残らない、そんなことがないでしょうか。

ちょうど、今は「聖書朗読リレー」があっている時期です。聞くところによると、今ちょっと人数にかげりが出てきて、ピンチだという話でした。もしかすると、この聖書朗読リレーも、「喉元過ぎて、熱さを忘れ」、最初は行ってみたけど、今頃はご無沙汰という人もいるのではないでしょうか。

熱さを通り越してから、平静に戻ってからが大事なんです。たとえば、洗礼を受けて間もなく、それはそれは熱心になれる良い時期だと思います。ですが、人間はいつもいつまでも熱いままということではないのですから、その後、どれだけ気持ちを維持できるか、このあたりが大事なのではないでしょうか。

聖書の中のペトロは、多少右や左にそれながらも、最後の最後まで、イエス様に付き従いました。ペトロは、最後はローマで、逆さ張り付けになって殉教したと言われています。晩年はイエス様が目の前にいたわけではありませんから、それこそ、いっときの熱では殉教までたどり着くことなどできないのです。

長い人生の中での信仰の歩みです。いっときの熱では決してイエス様に最後までついて行くということはできないのです。私の中に、熱さを忘れても、しっかりとイエス様を見据えて歩き続ける、そんな思いがなければ、この人生に信仰の実り、信仰をいただいて良かったという思いを植え付けることはできないのではないでしょうか。

家庭生活、親と子の間柄、周りの人との関わり、教会とのつながり、どれも、喉元を過ぎてからが勝負です。私の信仰は、何かの熱に浮かれてのことだったなんてことがないように、しっかりと自分の中に根を下ろしていただけるよう、今日のミサの中で恵みを願っていきましょう。