主日の福音2000,03,05
年間第九主日(Mk 2:23-3:6)
安息日の「精神」「思想」を学べ
今日イエス様は、私たちに安息日のことを教えようとしておられます。ポイントは、「安息日には、『思想』『精神』みたいなものがあって、神が安息日を定めたその『精神』を忘れてしまっては、安息日を無意味なものにする」ということです。ファリサイ派に代表される律法の専門家たちが、安息日の精神を、人間が決めた細則でダメにしてしまおうとしている。
そこでイエス様は、彼らに挑戦状をたたきつけます。「私は社会のしきたりから、人を解放します。安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。
私は、今日の箇所や、あるいはルカの13章にある「安息日に、腰の曲がった人をいやす」などに行き当たると、小学生の時の出来事をどうしても思い出してしまいます。
ある時、私は急に竹馬を作ろうと思い立って、日曜日に竹藪に入って適当なものを鋸で切り倒したことがあります。何のことはない、ただ遊びたい一心で切り出していたんですが、いつの間に近くに来たのか、母方の爺ちゃんが私のそばに来ていまして、「日曜日やろうが」と、きつく叱られたことがあります。
最後まで様子を見れば、私が仕事のために竹を切っているのか、遊びで鋸を使っているのかくらいは分かったはずですが、それでも爺ちゃんには、「労働をしている」ように見えたのだと思います。私は、すぐにこれで竹馬を組んで、遊ぶんだ、そればっかり考えていたのですが、注意しないと、「掟を守るための掟」がいつの間にか現れて、あれはダメだ、これはダメだと言い出すのです。
ここに、一人きりの高齢者がいるとしましょう。日曜日くらい気持ちいい一日を過ごさせたいと思って、婦人会で出かけていって、掃除・洗濯・料理、もしかしたらお風呂の世話まで、日曜日に奉仕したとします。これって、告解の材料になりますか?「日曜日に洗濯をしました」「日曜日に縫い物をしました」あー気持ち良かった。あーすっきりした。解放感を味わい、喜びいっぱいで残りの時間を過ごすことができる。それでもあなたは、いわゆる「日曜日に労働をした」この人に罪を認めますか?
毎週日曜日に洗濯をせろと言ってるんじゃないんですよ。「神様、今日はスカッと爽やかになるために、洗濯しますよ」。そう言って、日曜日に洗濯をすることがあってもいいじゃないですかと言っているんです。違いますか?
神様は、「安息日」を「誰もが解放される喜びの日」として定めてくださったのだと思います。安息日は、人を縛り、窮屈にするためのものでは決してありません。そうなってしまったとしたら、それは、「安息日にしてはならない39の規則」(ミシュナー)などに囚われている律法の専門家の責任です。
私は、規則に縛られて、雁字搦めになり、人にもそれを押しつけて、苦しめていないでしょうか。安息日には「思想」「精神」があって、私たちは安息日を、「守るためにあるもの」と誤解してはいけないのです。
「安息日」は私たちに日常の仕事から離れて、私たちに「解放」をもたらします。この精神を理解し、人々にも知らせることができるように、今日のミサの中で祈ってみてはいかがでしょうか。