主日の福音2000,02,20
年間第七主日(Mk 2:1-12)
イエス様は私にも「床を担いで歩け」と言う 
今日の福音で、読んでいて私がいちばん「困ったなぁ」と思ったのは、イエス様が話している次の言葉です。「中風の人に、『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。私はこれまで何度か、「どちらが易しいだろうか」考えたことがあります。

口で言うだけなら、「あなたの罪は赦される」と言うほうが、きっと易しいと思います。罪が赦されているかどうか、目で確かめることはできないので、もし罪が赦されていなくても、誰も調べることができないからです。「起きて、床を担いで歩け」この言葉は、もし、言った通りに歩くことができなかったら、「あの人はうそを言っている」とすぐに分かってしまいます。言うだけで実行しないなら、『罪の赦し』のほうが易しいことになります。

けれども、別の説明の仕方もあります。神様の助けがあれば、奇跡をおこなうほうが易しいかも知れません。旧約聖書では、モーセは海を二つに分けて、イスラエルの民をエジプトから脱出させました。神様の助けがあれば、寝たきりの人を治すことは、あまり難しくないかも知れません。

今話した、別の説明の仕方に従うと、罪を赦すことのほうが、難しいということになります。旧約聖書の中では、実際、人が人の罪を赦すという箇所は見あたりません。神様に赦しを願う箇所や、神様が「イスラエルの民の罪を赦す」という箇所はありますが、旧約聖書の人たちも、罪は神様だけが赦すことができると知っていました。

それで、「本当は、『罪の赦し』と『奇跡』と、どちらが易しいのかなぁ」と思って、いろいろ調べてみました。意外な答えでした。どの本にも、『どちらが易しいのか、はっきりしない』と書いてあったんです。

私は、今までいろいろ考えていたのに、「どちらが易しいか、はっきりしない」という説明を見つけたときに、「ますます困ったなぁ」と思いました。でも、旧約聖書を使って考えたように、「いちおう」奇跡のほうが易しいということにしたいと思います。これで、私が長い間考えていた問題が一つ解決しそうです。

これまでの話の中で、「奇跡」のほうが、「罪の赦し」よりも易しいという立場に立って考えることにしました。そこで、イエス様がしたことを確かめてみましょう。イエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、「奇跡」を行って、その人を帰しました。ここで、イエス様は次のように言いたいのです。「私は、言うだけで実行しない人ではありません。その証拠に、見なさい。私は奇跡を先に行いました。だから、私は本当に罪を赦すことのできる『神の子』なのです」。

ところで、私たちはどうでしょうか。「奇跡」のほうが易しいと言っても、奇跡ができるわけではありません。今日のイエス様の態度から、何を学んだらよいでしょうか。

今日、イエス様は私たちに、「言うだけで実行しない人になってはいけない」「できることのほうを、しっかり行いなさい」と勧めていると思います。

確かに、言うだけで実行しないのなら、「私は今からすっかり回心して、正しい人になる」と言うのは簡単なことです。イエス様は、言うだけで行わない人を喜びません。むしろイエス様は、「私は、今まであまり責任をとる仕事をしようとしなかったけれども、今年は何か一つ、責任を持って仕事を引き受ける」というふうに、具体的に目標を立てて実行することを望んでいると思います。

自分にできる、具体的なことを実行する人は、もっと大きな目標、たとえば、「正しい人になる」という目標を証明することができます。具体的なことを一つもしない人は、大きな目標を持っていると言っても、何も証明することができません。

イエス様は、「起きて、床を担いで歩け」と命令して、自分が罪を赦す神様であることを具体的に証明しようとしました。イエス様の言葉は、目の前にいる中風の人に言ったのですが、実は、私たち一人ひとりにも同じ言葉を言っていると思います。

それは、「あなたも、何か目標を持って生きているなら、具体的な行動を始めなさい。何かを証明したいなら、それを見える態度で示しなさい」と言うことを皆さんに教えたいのです。

何か、具体的なことをして、心で思っていることを証明しましょう。ある人を赦したいと思っているなら、具体的に何かをしましょう。誰かと友達になりたいなら、見える何かをしましょう。具体的に行動するための力を、今日のミサの中で祈っていきましょう。